歴代の関西学院高等部学友会ホームページ
初代学友会HP
- 1970年代~2014年までの情報を掲載!
- スキー旅行、文化祭などの情報も豊富
- 男子高時代の関学の雰囲気を感じられる
- 廃部となった部活の事などディープな情報も
- 見るならパソコン推奨です
製作者:丹羽先生&学友会の方々
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過去のマスタリー
マスタリーとは
学友会誌「マスタリー」は高等部生自身の手で編集・発行されている、高等部のイヤーブックである。1964(昭和39)年に創刊され、途中10年間の空白期間があったものの1978(昭和53)年に復刊し、現在に至っている。
廃部・休部となった運動部
運動総部
スキー部
1956年発行の卒業アルバムにて存在を確認。
スケート部
1956年発行の卒業アルバムにて存在を確認。
タッチフットボール部
1962年発行の卒業アルバムにて存在を確認。
ボート部
1956年発行の卒業アルバムにて存在を確認。
ボクシング部
1957年発行の卒業アルバムにて存在を確認。
ヨット部
終戦後の学制改革により関西学院高等部が発足した当初から存在し、2004年まで活動をしていた。
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ヨット部の詳細
2004年度
2004年 県高校総体近畿高校総体を終えて
ヨット部は六月五、六日に芦屋浜で行われた兵庫県高校総体で優勝、近畿高校総体で準優勝を果たしました。県大会は実力差があったため、旧型のセールを使用してレースに臨んだのですが、全員が新型セールを使用する県立芦屋高校が予想以上に速かったため、我々のヨットも二回目は新型のセールを使用してレースに出場しました。前日の不調とは打って変ってスピードが上がり、最終レースではだんトツの一位をとることができました。インターハイへ出場する七艇を選出する近畿大会、一日目第一レースは一位だったのですが、第二レースでフライングをしてしまいました。二日目第三レース二位、第四レースも二位。この時点では立命館高校のトップ艇が一位、関学は六位でした。五レース以上行われれば、最も悪い成績のレースをカットできるルールにより、三日目の第五レースが終わったときには一点差で二位になりました。大逆転を目指した最終レースでしたが、終盤にミスが出て五位に終わり、惜しくも優勝には届きませんでした。八月十八日より岡山県牛窓町で行われるインターハイ、十月に行われる国民体育大会では、この悔しさをバネに上位を目指すつもりです。風の強さ・方角・タイミングを予測し、常に自然と向き合うスポーツがヨットです。
1999年度
- 県総体 6/5-6 吉田・村上が出場
1988年度
- インターハイ 芦屋大会 S級7位
- 国体 宮津大会 S級3位
1985年度
本年をかえりみて
今年は念願のインターハイ出場を6年ぶりに、また、初の国体両クラス出場を果たした。今年の高等部のレベルは例年より少しずつ向上しつつあると思う。しかし、6年ぶりの全国大会でトップレベルとの差を見せつけられた。今年の悪かった点をいかして、来年はもっと上を目指してほしいと思う。また、来年度はコーチもつき、スナイブ、FJ級共に新艇という絶好の上位進出のチャンスである。日頃の練習を大切にし、“常勝 関学高ヨット部”を目指してほしい。(主将 川瀬康治)
公式戦
県総合体育大会 5月26日 西宮Y.H. 対香住高- F.J.級
- 第1レース(川瀬康・深川)1位
- 第2レース(川瀬康・深川)1位
- 第3レース(川瀬康・深川)1位
- スナイプ級
- 第1レース(岡本・川瀬隆)2位
- 第2レース(岡本・川瀬隆)2位
- 第3レース(岡本・川瀬隆)2位
- (F.J.級2艇、スナイプ級2艇参加)
- 総合F.J.1位 スナイプ 2位
- 団体総合 2位
(戦評) 2校だけの参加となったが、スナイプ級は船に乗りはじめて間もないための敗戦となってしまった。しかし、このレースで学んだことは多く、このすぐあとのインターハイ予戦で大変役立った。
インターハイ関西水域予戦 6月14日~16日 芦屋Y.H. 対星林高、関大一高、斑鳩高、香住高- F.J.級
- 第1レース(川瀬康・深川)1位
- 第2レース(川瀬康・深川)2位
- 第3レース(川瀬康・深川)2位
- 第4レース(川瀬康・深川)1位
- 第5レース(川瀬康・深川)1位
- スナイプ級
- 第1レース(岡本・川瀬隆)5位
- 第2レース(岡本・川瀬隆)4位
- 第3レース(岡本・川瀬隆)3位
- 第4レース(岡本・川瀬隆)4位
- 第5レース(岡本・川瀬隆)3位
- (F.J.級5艇、スナイプ級5艇参加)
- 総合 F・J・級1位 スナイプ級 3位
- 団体総合 2位
(戦評) 我々はこのレースに勝つために練習してきたといっても決して過言ではない。そのレースで勝ち、インターハイ出場を成し得た。これは、常に学部と合同練習してきたことが勝因だといえるだろう。また、レースが我々の最も得意とする微風化で、しかも地元で開催されたのも勝因である。このレース、2年岡本が3位に入り、来年は大いに期待する。
兵庫県民体育大会兼国体予選 7月27日・28日 西宮Y.H. 対香住高- F.J.級
- 第1レース(川瀬康・深川)1位
- 第2レース(川瀬康・深川)1位
- 第3レース(川瀬康・深川)1位
- 第4レース(川瀬康・深川)1位
- スナイプ級
- 第1レース(岡本・川瀬隆)1位
- 第2レース(岡本・川瀬隆)1位
- 第3レース(岡本・川瀬隆)2位
- 第4レース(岡本・川瀬隆)1位
- (F.J.級2艇、スナイプ級2艇参加)
- 総合 F.J.級1位 スナイプ級 1位
(戦評) 県総体の雪辱を晴らし、初の両クラス国体出場を成し遂げた。また、本にとってこのレースは大変苦しいものであったが、国休出場できたことは大変意義あるものであった。
インターハイ 8月1日~5日 石川県宝山マリーナ- F.J.級
- 第1レース(川瀬康・深川)16位
- 第2レース(川瀬康・深川)15位
- 第3レース(川瀬康・深川)2位
- 第4レース(川瀬康・深川)レース取り消し
- 第5レース(川瀬康・深川)14位
- (F.J.級 25艇参加)
- 総合 9位
(戦評) 6年ぶり全国大会出場ということもあり、他校の気迫に圧倒されていた。また、このレースでは他校とのレベルの差、特に細かいステアリングにおいてトップ集団についていけなかった。また、コースを取る上での一番大切なブローをつかむことを忘れ最終レースでは入賞(6位)出来る位置にいたにもかかわらず落ちていったのは大変悔やまれる。この経験を生かして、来年、深川が上位入賞を果たしてくれるのを心から願っている。
国民体育大会 9月15~18日 鳥取県境港公共マリーナ- F.J.級
- 第1レース(川瀬康・深川)38位
- 第2レース(川瀬康・深川)24位
- 第3レース(川瀬康・深川)8位
- スナイプ級
- 第1レース(岡本・川瀬隆)34位
- 第2レース(岡本・川瀬隆)30位
- 第3レース(岡本・川瀬隆)30位
- (F.J.級44艇、スナイプ級46艇参加)
- 総合 F.J.級 20位 スナイプ級 37位
(戦評) 今回のレースは、レース前に船をベストの状態に持っていけず、また、レースにぶっつけ本番で新しいことをしようとして第1、第2レースは失敗した。普段の練習でしなかったことは、しないに限る。よい教訓になったと思う。また、このレースは大変な波、うねりがあったために、艇を思うように走らすことが出来なかった。来年度の国体開催地は湖、インターハイは瀬戸内海と波は少ないが、風のシフトが多いと予想される。そこらをよく練習してほしいと思う。
定期戦
第8回関関戦 9月15日~18日 鳥取県境港公共マリーナ- F.J.級
- 第1レース(川瀬康・深川)2位
- 第2レース(川瀬康・深川)1位
- 第3レース(川瀬康・深川)1位
- スナイプ級
- 第1レース(岡本・川瀬隆)1位
- 第2レース(岡本・川瀬隆)2位
- 第3レース(岡本・川瀬隆)2位
- (F.J.級2艇、スナイプ級2艇参加)
- 総合 F.J.級1位 スナイプ級 2位
- 団体総合 2位
(戦評) 今年の関関戦は県の国体強化合宿のため夏休みに行うことが出来ず、国体にかえることとなった。結局、国体のポイント数で負けたわけだが、ふり返ると第1レースの沈につきてしまう。勝てていたレースであった。 (マスタリー第8号p215-217より)
1974年度
- 国体 土浦大会 S級4位
1973年度
- 国体 館山大会 F級7位
1968年度
- インターハイ 広島大会 S級6位 A・FJ級4位
1967年度
- 国体 浦和大会 F級6位
1966年度
-
国体 別府大会 S級2位 F級6位
1965年度
- 国体 蒲郡大会 S級5位
1964年度
- 国体 両津大会 S級4位
1963年度
- インターハイ 両津大会 S級5位
- 国体 玉野大会 S級7位
1961年度
- インターハイ 熱海大会 S級5位
- 国体 塩釜大会 S級2位
1960年度
- 全国高等学校ヨット選手権大会(インターハイ)第1回大会(塩釜)S級1位
- 国体 鹿児島大会 S級1位
1958年度
- 国体 大津大会 S級1位 A級5位
1956年度
- 国体 西宮大会 S級7位
1955年度
- 国体 葉山大会 S級5位
1954年度
- 国体 小樽大会 S級2位 A級3位
1953年度
- 国体 高松大会 A級1位 S級3位
1952年度
- 国体 松島大会 S級2位
1951年度
- 国民体育大会(国体) 宮島大会 A級7位
レスリング部
-
OBの山崎選手は1952(昭和27)年ヘルシンキオリンピックでウェルター級6位入賞
1958年卒業のレスリング部員(『関西学院高中部百年史』より)
その他にも全日本選手権出場選手、全米選手権出場選手、オリンピック候補選手を輩出
団体戦では重量級の選手を相撲部、柔道部から借用して闘ったりした
1979(昭和54)年に消滅
ワンダーフォーゲル部
1964(昭和39)年に同好会として発足し、後に部に昇格。
👈1988年8月の合宿(『関西学院高中部百年史』より)
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ワンダーフォーゲル部の詳細
1986年度
本年をかえりみて
全体的に、天気に恵まれなかったが、遠方の山系にも足をのばすこともでき、各々がバラエティーに富んだ山行となった。特に夏山合宿は、全工程晴天続きとなり、今までになく素晴らしいものとなった。 残るは、部員不足だけである。何もせずボーッと毎日を送っている諸君、都会と一味違った生活をしてみないか。 最後に、お世話になった顧問の先生、OBの方々、どうもありがとうございました。(主将 石原貴志)
- 10月10日 六甲山系
- 10月26,27に地 室生火山群
- 1月15日 六甲山系
- 2月8,9日 比良山系
- 4月19,20日 六甲山系
- 5月3,4日 大峰山脈
- 5月11日 六甲山系
- 6月7,8日 比良山系
- 7月25~30日 夏山合宿 北アルプス
- 9月22,23日 関関戦(仁川渓谷広川原)
- (マスタリー第9号p214-215より)
1985年度
本年をかえりみて
今年は、天候に恵まれたことが非常に良かった。ことに夏山合宿では、遠く富士の勇姿も眺めることができ、我々に深い感動を与えた。しかし、1つ我々の部に悩みがある。それは部員不足である。そのため、OBの方々や顧問の先生に大変な迷惑をかけてしまった。最後に、これを読んでいる諸君が、ワンダーフォーゲル部に入ってくれることを希望する。(主将 石原貴司)
- 5月3日 京都北山
- 5月11,12日 六甲山系
- 6月1,2日 比良山系
- 6月15,16日 比良山系
- 7月25日~8月1日 夏山合宿 北アルプス
- 9月15,16日 大峰山脈
- 9月22,23日 関関戦 六甲山系
- (マスタリー第8号p214-215より)
拳法部
1964(昭和39)年4月発行のマスタリー旧1号にて存在を確認。
1963年度 全国大会出場 予選敗退
👈1957年度の写真
硬式庭球部
1964(昭和39)年4月発行のマスタリー旧1号にて存在を確認。
体操部(器械体操部)
1961年~2006年まで活動を繋げた。
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体操部の詳細
2006年度
体操部は現三年生の引退を機に活動を終えることになる。春の高校総体は引退を賭け緊張感をもって挑んだ試合だったが、実力を十分に発揮できず県十一位という結果に終わった。その悔しさをバネに現在も体育館の使用が許される限り、一人一人が課題を持って練習に取り組んでいる。華々しい結果を残すことはできなかったが、彼らのこの三年間での成長は計り知れないものだった。それぞれが勝ち取ったものを胸に、次への第一歩を踏み出してほしい。(K.G.H.REVIEW第27号より抜粋)
2005年度
体操部は同学年ばかりの和気藹々とした雰囲気の中、日々練習に励んでいます。十一月の新人大会での成績は七位でした。現在は春の総体に向けて切磋琢磨して各自技術の向上を目指しています。
2004年度
現在、体操部は一年七名、二年七名の十四名で活動している。 春季は、阪神大会で第四位、県大会で第七位であった。 ジュニアから体操をしている経験者は五名で、ほとんどの部員は高校から始めた未経験者だが、基礎からコツコツと練習に励み、前宙・バク転など、ひとつひとつの技が出来た時には、皆で喜びを分かち合いながら楽しく活動している。 今年度は、他校との合同夏期合宿に参加し、選手同士の交流と技術の向上を図りたい。
- 県高等学校体育連盟阪神支部大会 団体総合 4位
- 県高等学校総合体育大会 団体総合 7位
1984年度
- 県大会 団体7位(吉村和泰、西川英也、浜野之伸、松島一浩)
- 県大会 個人17位(吉村和泰)
1977年度
- 高等部体育館が完成。オリンピック選手の監物永三氏が模範演技を床フロアー等最新式の体操器具で披露し盛大な体育館開きとなる
1972年度
- 県大会 鞍馬2位(中岡栄三郎)
1963年度
- 部昇格への努力が実り、体操部となる。
1962年度
-
有志7人で同好会として活動、競技会にも参加
- 体操競技経験者・斎藤安生が高等部の体育教諭として着任し体操部の同志を募る
- 有志4人が大学体育館で練習を開始
軟式庭球部
1964(昭和39)年4月発行のマスタリー旧1号にて存在を確認。
馬術部
1949年~1985年まで活動を確認
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馬術部の詳細
1985年度
本年度をかえりみて
本年度は、3年生もいず、部員不足にも悩んできた。しかも、試合でもあまり奮わなかった。しかし、この少人数が、この1年間馬術部を支えてきた。来年は、我々最後の年である。1年生も充分伸びてきたし、我々2年生も本年の苦い経験を味わっている。来年は、この経験をもとに1年生を引っ張って、伝統ある関学馬術部の名に恥じぬよう頑張りたいと思っている。(主将 鍵田篤彦)
公式戦
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第39回兵庫県民大会(7月20,21日 阪神乗馬センター)
- 少年馬場馬術 鍵田(聖月号)188 9位 奥田(月勢号)109 10位
- 少年貸与馬障害飛越(団体)-353.5
- (戦評)デビュー戦にもかかわらず惨敗してしまった。
- 第8回高校関関戦(9月23日 関大馬場)
- 関学 -750.5 関大一高 -268
- (戦評)実力差を見せつけられ、3敗目をきってしまった。
- (マスタリー第8号p213-214より)
1980年度
- 全国高等学校馬術大会優勝
1978年度
- 国体 少年障害3位(松村一人)
1964年度
- 東京オリンピック出場(佐々信三)、候補(本野善一)
1959年度
- 全国高等学校王座決定戦優勝
1957年度
- 西日本障害飛越競技 貸与馬1位(広瀬) 自馬1位(長久)
- 国体高校生障害貸与馬 2位(広瀬)
1954年度
- 全国高等学校王座決定戦優勝
1950年度
- 当時の皇太子殿下率いる学習院高等部と第一回定期戦
1949年度
- 第三回国体出場(亀頭正和)
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第39回兵庫県民大会(7月20,21日 阪神乗馬センター)
廃部・休部となった文化部
PFC(Pen Friend Club)
1964(昭和39)年4月発行のマスタリー旧1号にて存在を確認
文通による海外交流を実施
科学部
1963~1982年度にかけて活動
1982年に部員減少に伴い生物部を中心に物理部・電波部・化学部が合併し、理科部となる。
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科学部の詳細
1980年度
- ケムス化学の学習と実験
- 文化祭展示:天然水の定量分析、食品色素の分析、化学映画の上映
1979年度
- 文化祭で分析化学について研究発表、銀賞を受賞
1966年度
- 機関誌「フラスコ」5号、6号を編集・発行・配布
1963年度
- 定性分析について研究発表
- 機関誌「フラスコ」を編集・発行・配布
劇研究部
- 1965年度
- 文化祭で劇を上演
- 自主映画を作成
- 1964年度
- 文化祭で演劇「息子」を映画化したものを上映
- コンクールに参加
- 歌舞伎座の楽屋に出入りする
- 1963年度
- 文化祭で演劇「息子」を上演
- コンクールに参加
社会研究部
1962年発行の卒業アルバムにて存在を確認。
新聞部
-
近畿高等学校新聞コンクールで1位・2位を幾度も獲得
- 1964年度
- 「関西学院高校新聞」84号~91号の計8号を発行
- 神戸女学院高等部新聞部と合同研究誌「THE・YOUTH」を発行
- 全国高等学校新聞連盟近畿第1ブロック理事校、兵庫県地区会理事校として活動
- 1951年度
👈1951年の関西学院高校新聞
灘高新聞部とライバルであった
思い切った学校批判、教師批判で話題に
制服廃止にも一役買った
図書サークル
図書サークルは主に生徒の視点から図書館の良さや使い方を伝える広報の役割を果たしており、文化祭で図書館を活用した展示と古本市を行っていた。部員の減少に伴い、一時活動を停止していたが、2012年度新規部員が入部し活動を再開した。
2014年度、部に昇格する。
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図書サークルの詳細
2014年度
今年4月に図書部が発足し、本好きが図書館に集まって本や研究についてワイワイガヤガヤやっています。現在、秋の文化祭に向け「大阪」をメインテーマに各部員が地下鉄民営化、再開発、旧地名、防災、犯罪などの領域を分担して研究し、成果の論文は全国コンクールに応募します。夏休みには課題図書を決めて読書会を開き、秋の「どくしょ甲子園」(朝日新聞社)に挑戦しようと考えています。 個人でも「ビブリオバトル・関西大会」や「Newton賞」(関西学院大学図書館)での入賞狙う部員もいます。 6万冊の本に囲まれた高等部図書館で知の森林浴という贅沢を味わいたい仲間の入部を歓迎します。 (K.G.H.REVIEW第43号より。ただし抜粋に当たって一部表記を改めたところがある)
2013年度
- ビブリオバトルに参加。
- 文化祭で古本市を実施。
2012年度
1年前山が第32回全国高校生読書体験記コンクールに応募し、「『阪急電車』とともに走った路―四度の出会いをとおして―」で入選を受賞。
また、文化祭で「4大新聞+神戸新聞」の展示を実施。
2006年度
文化祭でメディアについての展示と古本市を実施。
2005年度
文化祭でハリケーン被害についての展示と古本市を実施。
2004年度
- 京都へ取材旅行。
- 文化祭で新撰組についての展示と古本市を実施。
1994年度
- 鉄道研究部と合同で『人に優しい鉄道づくり―鉄道と社会福祉』を発行、文化祭で販売。
数学研究部
1974年度高等部卒業アルバムにて存在を確認
生物部
1963年から1982年にかけて活動
1982年に部員減少に伴い生物部を中心に物理部・電波部・化学部が合併し、理科部となる。
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生物部の詳細
1981年度
- 夏季合宿を実施
- ストレスが生体に与える影響をシロネズミの解剖により実験
- 鳥類の囀りや縄張りについて研究発表
- 仁川の水棲昆虫について調査
1980年度
- 部誌を制作・発行
- さまざまな実験用の小動物を飼育
- 文化祭でネズミの公開解剖を実施
1979年度
- 文化祭で銅賞を受賞
1966年度
- 山陰地方で研究合宿を実施。魚介類、海洋性プランクトンを採集。
1964年度
- 他校との交流を開始
1963年度
- 動植物の採集・解剖・観察、共同研究、個人研究を実施
創作サークル
2007年、2006年に活動
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創作サークルの詳細
2007年度
三人の新入部員が入る。今学期、創作サークルは従来から行っている読書会と文章力や画力を伸ばすための全体活動を基盤にしつつ、各自が自分の作品に取り組み、部内誌『くらり』を創刊した。その合評会も厳しい指摘や深みのある意見が飛び交う、それぞれにとって次への指針となる有意義なものとなった。 また、昨年度のNTT西日本コミュニケーション大賞に続き読売新聞主催『有栖川有栖さんとつくる不思議の物語』に投稿するなど、学外への投稿活動も本格的に開始。一年生三人が新たに参加し、現在は『くらり』第二号を発行すべく、鋭意創作中である。(『くらり』創刊号は図書館内雑誌コーナーで閲覧できます。)(K.G.H.REVIEW第29号より抜粋) 部員の一人の絵が雑誌に掲載された。
文化祭
マスコットの「プリンチパート男爵」の看板で、「お金で買えないものがたり」と題して展示を行った。「メーキングストーリー」をメインで行った。これは選択肢を選び、床にある矢印に沿っていくとルート(話)が変わり、いった先の机にある小説や挿絵を取っていき最後に全部をとじて小冊子にするという展示方法。またイラストも多数展示したり、部内誌『くらり』や、感想を書くためのノートも設置した。「プリンチパート男爵」があしらわれた栞が当日配られ、おおむね好評だった。
2006年度
昨年末頃から小説や漫画等の創作活動に興味のある生徒が図書館に集まって活動している。個人個人が趣味嗜好の範囲で行う創作とは一線を画し、技術の向上と内実を目指すことが目標である。活動時間の前半は技術向上のための全体作業に、後半を個人の創作活動に宛て、一日の終りには日誌で振り返りを行い、週の終りには次週の課題内容を話し合うなど、活動の中身もようやく整備されてきた。(K.G.H.REVIEW第27号より抜粋)
地歴部
- 地理、歴史に関する研究活動、展示を実施
- 毎年、部誌「甲山」を発行していた
-
地歴部の詳細
地歴部の思い出 中学部教諭(1994年高等部卒業)河野隆一
高等部への進学は、自分を変える大きなチャンス。今でも私はそう思っています。 中学校ではバスケットボール部に所属していましたが、高等部では地歴部に入部しました。中学生になり、身体を動かすことや容姿など、見栄えがいいことばかりを追い求めていました。中学三年生ごろから、何をやっても評価されないと感じていた苛立ちもあいまって、センスだとか、教養だとか、無形のものに興味が移行していきました。当時、唯一歴史という分野においては、主観的にも客観的にも評価できました。地歴部への入部はそんなところに端を発します。 入部を決心していたものの、まだ個がふらふらしている年頃。一人だけで行動を起こすには勇気が入りました。そこで、同じようなことを考えていた同志に声を掛けました。結果、同級生十数人とともに入部。ちなみに、当時の地歴部は三年生が五人、二年生は○でした。 三年生の先輩がとても魅力的でした。司馬遼太郎をすべて読破していた先輩。白文で漢文を読みこなしていた先輩。十字軍のことなら何でも知っていた先輩。偏った知識を有していただけでなく、教養溢れる先輩たちでした。とくに定められた活動はありません。部室でダベったり、半ば遊びのスポーツをしたり、敢えて言えばともに同じ空間で話すことが活動でした。いわば「サロン」でした。そんな活動も、夏休み前くらいから具現化していきました。文化祭展示の準備や部報「甲山」の編集です。レタリングの技術、文章の書き方、ものごとの調べ方、模型の作り方、いろんな表現方法や技術を先輩から学びました。顧問の志賀大郎先生からは、それらを補完する知見や情熱によって示唆をいただきました。 一年生時は、副顧問の丹羽時彦先生のすすめもあって、旧西国街道について調べました。旧西国街道は古代からの歴史ある街道です。京都と西宮を結んでいます。今の国道一七一号線とほぼ同じ位置を走っていました。夏休み、旧西国街道を「関西学院高等部地歴部」と書いたのぼりを立てたリアカーを引いて実際に歩きました。京都府大山崎町から西宮市までを一泊二日で踏破しました。途中の箕面にある寺院で宿泊したこと、帰宅するとソビエト連邦でクーデターが起きていたことを今でも覚えています。 二年生時は、部長として「三国志」をテーマに設定しました。ゲームなどによる「三国志」ブームに乗じた短絡的な発想でした。『関西学院高中部百年史』には、かつての先輩が「三国志」に魅せられ、舞台である中国まで旅行したことが載っています。後日そのことを知り、安易な考えを改めて活動に邁進したことを思い出します。 三年生時のテーマは「関ヶ原」でした。生徒会で諸役を担うことになったため、集団での部活動からは離れました。その分、読書科における論文作成など、個人の調査で部活動に協力しました。その過程で出会った藤井治左衛門(編)『関ヶ原合戦史料集』(新人物往来社)により原史料の迫力を知りました。副顧問だった梅原隆治先生からは、地理的に見た関ヶ原についてのヒントをいただきました。 今から思えば、いずれも稚拙な活動内容です。しかし、これらの活動により知識・教養がつきました。知的好奇心が満たされました。社会に受け入れられる展示の技法が学べました。そして何より、その後のきっかけをつくりました。 「関ヶ原」を調べたことにより、大学・大学院では関ヶ原の戦いと同時代である近世の歴史を研究することとなりました。旧西国街道を調べたことにより、近世でもとくに交通史・流通史を研究することとなりました。大学・大学院での研究活動が、今の教師生活の中で大きな力となっているのは言うまでもありません。若い頃はどうしてもわかりやすい価値観に惹きつけられてしまいます。だからこそ、意識的にわかりにくい価値観に目を向けていかなければなりません。一人ひとりに合った価値観を見つけるためにも。(K.G.H.REVIEW第26号より)
1999年度
- 地歴部と鉄道研究部が合併し社会部となる
1994年度
94年度の活動内容は次の通りです。
- 文化交流会への参加
- 文化祭での縄文展
1993年度
今年の地歴部は三年生十一人、二年生一人、と文化部内に於いては多勢でスタートした。地歴部では毎年テーマを決めて研究に取り組んでいるが、今年はテーマを「関ヶ原」と決めた。さらにテーマである「関ヶ原」を「一六〇〇年関ヶ原の戦い」、「関所と関ヶ原」、「現在の関ヶ原」と細分化し、グループごとに研究を重ねた。また、一年の時から続けて調べている「西国街道」の研究にも取り組んだ。春に有能な二年生三人が入部したため、活動に拍車がかかり、冬休み、夏休みには実際に関ヶ原へ行ったりもした。 文化祭では保健講義室を使い、展示を行った。関ヶ原合戦模型や不破の開模型をはじめ、視聴覚に訴える展示は来訪者の心をつかんだと思う。また恒例の部報「甲山第二十七号、第二十八号」も、当日無料配布し好評を得ていた。結果として約六百人が訪れ、銀賞をとることができた。三年生にとっては有終の美を飾ることが出来たと自負している。 来年は四人だけと数では淋しくなるが、少数精鋭なので是非、ご期待いただきたい。 最後に顧問の梅原先生、ご助力を賜った志賀先生にこの場を借りて感謝の意を表したい。(マスタリー第16号p332より・文責:河野隆一)
1992年度
今年の地歴部は三年生不在の部員十二人でスタートした。そして今年のテーマは「三国志」「水滸伝」「西国街道」とした。模型の破損や原稿の紛失などで活動は困難を極めたがなんとか乗り切って文化祭をむかえた。 文化祭では、社会科教室を使い、「三国志展」では模型4点を展示し魏の盛衰を再現、 「水滸伝展」では模造紙で説明、「西国街道展」では模型3点を展示した。今年はパソコン展示、ビデオ「諸葛孔明」の上映と例年とはひと昧違った展示を披露したつもりである。しかし伝統は伝統として毎年恒例の部報「甲山」は絶やさず、十二月初旬発刊予定である。結果として文化祭の展示には七百人もの人々が訪れて下さった。賞こそとれなかったが、精一杯やったつもりである。 来年も今年と気が合う同じメンバーなので、今年よりグレードアップした展示が来年行われると期待していただきたい。 最後に、いつも我らを気遣っていただき今年御退職なさる顧問の志賀先生、また陰ながら我が部を見守っていただいた顧問の丹羽先生に、この場を借りて感謝の意を表したい。(マスタリー第15号p198より・文責:河野隆一)
1991年度
今年の地歴部は四月にスタートした時は三年生部員五人だけであったのが、まもなく一年生が十人近く入部し、文化祭時にはのべニ十人位のメンバーで活動することとなった。今年のテーマは「源義経」と「アラブから見た十字軍」、さらに新顧問の丹羽先生の提唱で一年生主体の「西国街道」とした。しかし、部屋がせまい、一年生が思うように動いてくれない、などの困難の上、所属しているが活動に来ないだけでなく、時々部員を自分の仕事に従事させる奴などもおり、活動は難航した。だが、そこは地歴部、経験と財力と人海戦術で乗り切った。そして、文化祭に向けてそれぞれのテーマで作業を進めた。
文化祭では、普通教室二つを使い、源義経展(模型七点)では源義経の一生を再現し、西国街道展も小規模ながらよくまとまった。十字軍展ではひたすら模造紙で説明をした。また、休けい室をもうけ、お茶の無料サービスやユニセフ募金も行なった。毎年恒例の部報「甲山」も発行した。
その成果として二教室使ったにもかかわらず九百人もの人が訪れてくれた。ただ、中学部・高等部の先生方があまり来てくれなかったのが心残りではある。賞は部長賞のみで、かなり不満であるが、銀賞のところなどに比べて全体的なインパクトが弱かったのは否定できない。
来年は三年生の部月がいなくなるのでかなり不安材料があるが、まだ志賀先生もご健在でいらっしゃるし、丹羽先生もやる気満々なので、他の部に負けぬようにやってほしい。
最後に、一年間お世話になった顧問の志賀先生と丹羽先生に感謝の意を表したい。(マスタリー第14号p159より・文責:池島勝幸)
1990年度
1989年度
1988年度
- 文化祭展示「三国志」に対し金賞・部長賞・ポスター賞の三賞が贈られる
1981年度
- 岡山県の高梁川流域の歴史・産業・交通等について研究と現地調査を行い、文化祭で展示。
1979年度
-
近世の西宮について研究と現地調査を行い、文化祭で展示。
1966年度
- 西宮市の北口商店街の都市調査
- 佐賀県多久市の炭鉱調査
1964年度
- 能登半島、七尾湾、能登島についての研究調査、模型製作、民話の蒐集
1963年度
- 芦屋女子学園高等部社会化研究部との交歓活動
- 天橋立の模型製作
- 鳥取県で「たたら」の研究調査
- 機関誌「甲山」15号を発行。テーマはヨーロッパ共同体(EEC)
鉄道研究部
- 鉄道に関する研究発表、鉄道の見学会・撮影会、夏休みの鉄道旅行などを実施
- 機関誌「Whistle Stop」を発行
- 👈1972年の広島夏期合宿(『関西学院高中部百年史』より)
-
鉄道研究部の詳細
1999年度
- 地歴部と鉄道研究部が合併し社会部となる
1996年度
今年度の鉄道研究部は、神戸市電の廃線跡をたどる作業に終始しました。
“廃線跡をたどる”という作業は、古今東西、森羅万象、有象無象の『鉄ちゃん』達が一度は体験する地道な作業です。
そんな作業のため、阪神大震災後二年目を迎えた被災地・神戸に乗りこみました。
神戸市電は、現在の阪急三宮駅付近を中心に東は石屋川(現在は阪神電鉄の車庫があり、ここも震災の被害を激しく受けた所です。)西は須磨・板宿に至るまでを縦横無尽に走り抜けた路面電車です。
昭和四七年に廃線に追い込まれた神戸市電ですが、その足跡をしのばせるものは、ほとんどなくまた、市電にまつわる文献もそう多くもなかったので、かなり調査に手間取りました。
-通常『鉄ちゃん』と呼ばれる生き物達が繰り広げる作業には、目に見える廃線跡が不可欠でありまして、彼らは苦労の末に見つけたレールの枕木や、プラットホームのブロック塀に二喜一憂するという特徴があるのです。
市電の歴史については、小誌『懐かしの神戸市電』にまとめ、文化祭ではさらにコンパクトにまとめた市電の歴史をコンピューターで披露しました。 文化祭は、概ね好評で、在りし日の市電の姿を知る人から「懐かしい」との声を頂きました。
モーターライゼーションの波に呑まれる形で全国数々の路面電車が私達の生まれる前に廃止されました。
けれども、ヨーロッパ諸国では都市における『車社会』の限界を感じ始め、積極的に路面電車を都市計画に取り入れています。日本の各都市でもマイ・カーの多さが交通機関をマヒさせている傾向があり、そろそろ路面電車などの公共交通機関を見直してもいい時期ではないでしょうか?
毎年恒例の夏合宿ですが今年は、東京・軽井沢方面へ足を運びました。
(マスタリー第19号p192-193より・文責:阿部礼)1995年度
今年、全ての原点と言える出来事が年明け早々起こってしまった。それは阪神大震災である。交通網がマヒし、新幹線の高架がいとも簡単に崩落した。それにともない、阪神間の各鉄道がストップしたことはまだ記憶に新しい。本年度の鉄道研究部もここからスタートした。
地震直後、阪神間にある各学校では始業時間を遅くするなどの処置がとられた。それは言うまでもなく通勤(通学)の手段である鉄道各路線の寸断に起因した。各鉄道会社は、復旧を目指し工事を着々と進めてはいたが、一時的に“押しくら饅頭”に溢れる日常の通勤光景が見られなくなってしまった。 そこで、我々はそんな日常の光景が再び戻ることを期待し、『通勤・通学』をテーマに掲げて、被災地と化した各沿線における調査を始めた。 また、昨年鉄道研究部で採り上げた『鉄道と社会福祉』を念頭におき、特に阪神大震災により崩壊した、阪急三宮・伊丹、JR六甲道・新長田各駅において、駅の障害者設備の現状を調査した。 詳しい内容は、文化祭に合わせて発行した部誌『痛勤・痛学と阪神大震災』を御覧あれ。
最後に部にとって悔やまれる事態について一つ。 今年は特に入学生向けのクラブ紹介に力を注いだ。知る人ぞ知るアノ人を折りまぜてのクラブ紹介は、場内大いなる関心をよび、大成功を収めたのだが、何故かからっきし新入部員が現れなかったのである。クラブの存続が憂慮される今日この頃である。(マスタリー第18号p232より・文責:浜田泰彦)
1994年度
年間活動表
- 3月 鉄道研究部連盟 春期合同親睦旅行
- 4月 文化祭「鉄道と社会福祉」展 準備開始
- 5月 阪急電車本社訪問(施設課)メインストリーム協会訪問
- 8月 部員有志 「障害者甲子園」 への参加 夏期合宿 新潟・磐梯猪苗代湖
- 10月 「人に優しい鉄道づくり-鉄道と社会福祉」刊行
- 11月 朝日新聞全国面に掲載される 11/2夕刊 文化祭展示「人に優しい鉄道づくり-鉄道と社会福祉」展(図書サークルとの合同 部長賞・銅賞受賞)
- 12月以降予定
- 鉄道研究部連盟 冬期合同親睦旅行
- 鉄道研究部白書'94の発行
- 春期クラブ合宿
- 関西私学鉄道研究部連盟
- 創立一周年記念総会
この一年間鉄道研究部は、人に優しい鉄道とは?を追求してきた。これは、今迄取り組んできたNewer Technologyとは少し方向が違い、現在日本の鉄道は、障害者にとって大変利用しにくいものであり、重要で且つ早急に解決なされなければならないという事に気付き、関西圏の各鉄道会社の障害者対策についてを中心に調べた。文化祭では、実物大の阪急車両やスロープを作り実際に車椅子体験をして貰った。この取り組みは、これからも継承して行くつもりである。今後の調査内容の充実と鉄道研究部の発展を期待すると共に、今回の調査で協力してくれた方々にこの場に於いてお礼を言わせて貴います。
又、「人に優しい鉄道づくり」「鉄道と社会福祉」は、一部三〇〇円にて発売しております。詳しくはクラブ部員まで。(マスタリー第17号p154-155より・文責:東中綱利)
1993年度
一九九三年度関西学院高等部鉄道研究部業績報告
昨年度の文化祭の数日後に、部長の任が浜村直之から東中綱利に引き継がれた。東中綱利が、鉄道研究部再建後の第二代部長に就任したということになる。
そして三月に、昨年度までお世話いただいた川本宏夫顧問が写真部へ異動されたので、四月より宮寺良平教諭に顧問に就任していただいた。
夏、私達は夏期合宿を実施した。第一・二学年部員は第一次合宿として九州にて、第三学年は第二次合宿として四国にて展開した。その「第一次合宿記」が、文化祭で無料配布した機関誌『STATION 第5号』に掲載された。第二次合宿記は…その締切に間に合わなかったために掲載できなかった。
文化祭では、これまでになかった企画が続々登場した。ひとことで述べるならば、それは「視覚化革命」である。マルチメディア(マッキントッシュは特記すべきであろう)を利用することが可能となり、これまでの活字のみの表現から、ビジュアルを取り入れた表現ができるようになった。これによって、機関誌製作技術が大きく向上したほか、展示会場においても多映像の展示ができた。マッキントッシュを使用したクイズでは、顧客を楽しませることができたので、成功だったと思っている(昨年度、マッキントッシュを使用して、機関誌『関西学院高等部鉄道研究部によるリニアモーターカー理論』を製作したが、今年度ほど充分に活用できなかった)。私達の間では、これを「一九九三年の視覚化革命」と呼んでいる。
また、今年は“鎖国”解除で“開国”した。他校に積極的に接触を行い、「京阪神高中学校鉄道研究部連盟」を発足させた。灘高校鉄道研究部、関西大学附属高校鉄道研究部等との協議で、現在、共同機関誌『テールライト』を刊行する計画にまで至っている。
「革命」だ「開国」だと、日本史に例えると、まるで明治時代の幕開けのようだが、日本のその後は(一度は世界大戦でトヅボにはまるが、さらにその後は経済大国となって)明るいのは読者諸氏もご存じの通りである。おそらく、鉄道研究部の今後も明るいのだろうと推理される。
今年度の文化祭では第十一位に終わってしまい、一昨年(銀賞受賞)や昨年(銅賞受賞)と比較され、悔しい想いが部員ひとりひとりに残されているが、また来年度を目指して研究に励みたい。取り組みたい。一九九一年春、鉄道研究部を再建した三人の新入生がいた。その三人である浜村直之(前部長)、山下修平(前副部長)、染川正勝(元副部長)と、黒田智哉、三浦隆裕は高等部を卒業してゆくことになるが、五人が口を揃えるようにして「これからも鉄道研究部の途切れることのないことを願いつつ、見守っていきたい」と語る。
来年度の活動に期待されたし。ただそれだけしか言えない。(マスタリー第16号p332-333より・文責:浜村直之)
1992年度
今年度は、文化祭では銅賞に終わり、昨年の銀賞に比べると後退したが、一年生の新入部員二人を加え、活動そのものは昨年度よりもさらに充実したものとなったと確信している。
新年度の活動が始まって早速、文化総部クラブ紹介においてアピールとビラ配布を行った。鉄道模型のほうも昨年度の二倍に拡張すべく4月には製作開始。5月2日には機関誌『STATION』第2号を発行した。
夏休みには8月7~8日に、東海、中国地方2府7県に及ぶ無謀ともいえる合宿『MOON LIGHT』を実施。当初3日間の予定であったが台風で途中切上げを余儀なくされた。費用はたったの4520円。9日には阪急電鉄スタンプラリーにも参加した。なお、この合宿に合わせて合宿誌『MOON LIGHT』を発行した。夏休み中には文化祭で展示した「リニアモーターカー」に、ついてその概略がまとまった。また模造紙の作業にも着手した。
二学期開始直後の9月7日には機関誌『STATION』第3号を発行。これは合宿記がその中心をなしている。9月中旬には鉄道模型もその殆どが完成した。いよいよ文化祭へ向けての大詰めである。英語力判定テストや中間試験といった障壁もあったが、文化祭では『STATION』第4号と『リニアモーターカー概論』の2冊の発行が決定。苦しい作業が始まった。何しろ、前者は60頁、後者は40頁に及ぶものだったからである。なお、これとは別に、9月20日には「国鉄尼崎港線廃線跡探訪ツアー」としてJR塚口駅~阪神出屋敷駅間を現地調査した。
中間試験が終了し、文化祭まで残すところあと一週間余りとなり、完成に向けて全力を注いだ。コンピュータ技術を駆使した『リニアモーターカー概論』の編集に予想以上の時間がかかったことや、膨大な模造紙の量のため文化祭前日の準備は午後11時半までに及び、当日は午前5時半集合という強引さをもって模造紙70枚、機関誌600部配布の展示は何とか完成した。テーマは「リニアモーターカー」、「日本鉄道史」を骨格とし、「合宿記」、「激動の鉄道'92」を模造紙で紹介したほか、鉄道模型展示、ビデオ『世界の車窓から』の上映、さらにはウー口ン茶と紅茶のサービスまで行った。
これだけの努力の結果が銅賞に終わったことは残念ではあるが、見た目の派手さが偏重され、文化的活動が軽視される現代の世の中にあって致し方のないことでもあることを痛感している。もとより、我々の方にも内容のレベルが向上したがそれに見合った適切な解説が欠如していたことなど反省すべき点も多くあり、それを見い出せたことにも意義があったと思っている。これでも文化総部内では一位であったし、小規模な部にあって、何よりも一人一人に課せられた量が格段に多く、かつそれをなし遂げたことを誇りにして、来年度の活動に向けて進むべきであると考えている。(マスタリー第15号p199より・文責:浜村直之)
1991年度
(はじめにひとこと)
休部になっていた鉄道研究部が、活動を再開しました。読んで頂ければわかりますが、彼らの意気込みと頑張りは驚くべきものでした。今後の鉄研へのさらなる期待と、他の文化部へ発破をかける意味をこめて、この『鉄道研究部白書』を、少し長いですが、掲載します。鉄道研究部 業績報告
第一章 再建と初期活動
平成三年四月五日、関西学院高等部に二八四名の新入生が入学しました。 そして一二日、その中の三名が「鉄道研究部」を再建しました。 顧問に川本宏夫教諭をお迎えし、部室は前・映画研究部室を使用させていただくことになり、三名での始まりとなりました。活動日は週に4回 (月・火・木・金曜)と決め、4月に入学して早速ながらも、鉄道研究部は活動を開始したのです。
しかし、4月に再建した為、部費が出るか否かという、経済面での対策に当初困難な状況でありました。「部員が五名にならなくては部費がおりない」と何度も言われ、私達は部員急募に力を注ぎました。そして一名、また一名と、何とか五名となり、部費13000円を収入とすることに成功したのです。
四月十六日の部内総会で、二七日の取材案が提出きれました。場所をいくつか検討した結果、大阪弁天町の交通科学博物館としました。またその総会で、年刊機関誌『Whistle Stop』の斬新な書名変更案が提出され、『STATION』という単純ながらも鉄道を示すに相応しい書名となりました。
私達は四月より、鉄道模型のNゲージ・レイアウトの作成を考えていました。これは大作業となることを部員一同確信していたため、覚悟の上でした。実際、その後苦労したことは言うまでもありません。) 四月二七日、予定通り、大阪弁天町にある交通科学博物館に見学に行きました。多くの部員は、過去に見学した経験のある者であったので、あまり感心することなどはありませんでした。
その後、機関誌「吾が鉄道空間」「GESELLSCHAFT」が度々発行され、機関誌 『STATION』の内容も着々と進んでいきました。 しかし五月一四日、滋賀県の陶芸の町・信楽を走る信楽高原鉄道で大惨事が起こりました。それはJR車両との正面衝突事故でした。私達は早急、「検証説明会」を開催する予定だったのですが、その時は中間試験中。試験期間の終わった後、五月二七日に「信楽高原鉄道事故検証説明会」を開催したのです。
第二章 中期活動は暑さの中で
「信楽高原鉄道事故検証説明会」も無事に終了し、私達は鉄道模型レイアウトの作成にかかりました。ボードを購入、線路を配線、固定する。また、夏休み中に考えている夏期合宿についても総会で話し合いました。結果、名古屋方面の鉄道を調査するということに決定しました。顧問の川本教諭に報告すると、先生から「その日から英国に行く」と聞き、前身「鉄道研究会」創設初代顧問・曽山一夫先生 同学院中学部・音楽科教諭)に引率していただくことになりました。
夏休みに入り、鉄道模型レイアウト作成に本格的に取りかかり始めました。固定した線路の回りにトンネル (山)、丘などを作るため、紙粘土との「格闘」が始まりました。模型作成の過程では、この作業が最も大変でした。夏休みが終わる頃、ようやく、ボードの半分に紙粘土が完成しました。
合宿では名古屋方面ということで、樽見鉄道(株)本社を取材しました。また近鉄「アーバンライナー」DX席など、多種多様な列車に乗りました。これも良き経験の一つだったと思います。
夏休みが終わり、私達は二学期を迎えました。「模型は文化祭に間に合うのか」不安でした。しかし、あと二ケ月、あとニケ月と部員一丸となって、文化祭に立ち向かうのです。
第三章 後期活動I「文化祭に間に合うのか」
九月に入ったものの、まだ残暑の九月でした。九月に入ってから、これからの行動予定を総会で話し合いました。①鉄道模型の完成(この時の状態では間に合うように思わなかった)、②模造紙の完成(まだ全く手を付けていない)、③機関誌『STATlON』原稿完成と多量発行(三〇%程完成)の三点でした。
とにかく①が完成するかが唯々心配で、模型の作成に全力を投入することにしました。 こうなっては週四日などとは言えず、週六日(月曜~土曜)となりました。毎日、紙粘土との「格闘」が続きました。こうして、ようやく秋を感じるようになった10月へと入っていくのでした。一〇月、残り一ケ月と文化祭は迫ってきました。模型はどうやら完成できそうに感じられました。だから、作業を並行して、模造紙書込作業に入りました。今年の文化祭は、展示会場内を模造紙で埋め尽くそうと考えていました。一学年五名による展示としては、そのような展示をして、ただ見学に来た方々を驚かせることしか出来なかったのです。模造紙も徐々に進行、展示について考案する必要性が出てきました。展示会場内をパネルで如何に仕切るか」、感型をどのように展示するか」を考えました。そして、文化祭週間をいよいよ迎えることになるのです。
第四章 後期活動II「文化祭週間突入!」
一〇月三〇日放課後、文化祭週間に突入しました。いよいよ残り五日間と迫る中、部員の顔には汗、汗、汗……。パネル運びなど、労働力のない少数部員の部では、力仕事には困りました。結局は五名でパネルを展示会場に運びました。
展示会場に、完了した模造紙、もう少しで完成の鉄道模型レイアウトを部室から運び込み、いよいよ大詰めとなりました。しかし展示会場で模造紙を書き、模型を作り、夜は午後七時三〇分まで、毎日頑張りました。
十一月三日、前日となり、最終段階に入りました。明日、見学に来られる方々へのサービスの烏龍茶も購入に行き、また、模型も完成し、模造紙を残すのみとなりました。その日の夜、午後九時三〇分頃、模造紙も完成し、いよいよ明日となったのです。
十一月四日。文化祭当日。準備は出来たものの、集客に対する不安が募りました。開会の午前九時。展示会場ではラジカセの最大音量で機関車の汽笛音を鳴らしました。展示会場は集客的には悪い場所ではありましたが、呼込み、集客に努めました。機関誌『STATION』も、皆さんの手に。展示会場に入れば、鉄研部員がお茶をサービス。見学者を最大限にもてなしました。信楽高原鉄道、島原鉄道への義援金は一三、八二四円も集まりました。
午後三時三〇分、無事に展示終了。再び、最大音量で汽笛昔を鳴らしました。 翌日、後片付け。何とか片付き、無事に終わったと思いました。 午後二時の全校生集会で、鉄道研究部に次代への画期的な出来事が起こりました。「銀賞 鉄道研究部!」、私は耳を疑いました。号泣しそうな瞬間。
第五章 回顧と次代への期待を
思い起こせば、この七ケ月間、部員一同よく頑張ったと思います。それは一人一人の努力を評価したいのです。多人数の部員を持つ部では、ともすれば全体の成果のみで評価しがちなものです。しかし、私達は各人の努力で、それに対応しました。
志賀太郎教諭(地歴部顧問)は私達に常に「競争しなさい」と教えられます。それは会社同志の販売競争等と同じで、競争することによってそれぞれが発展することを教えられているのだと思います。私達は再建時以来、地歴部の次の順位を目指し、頑張って参りました。これからは同学年同志の競争となります。関学の大いなる文化を更に発展しなくては、私達の文化総部の意味がないと思うのです。鉄道研究部は、これからも文化総部の発展に貢献することを惜しまない決心であります。
今後、文化総部がどのように活性化してゆくか、更に検討しなくてはならないと思うのです。(マスタリー第14号p159-162より・文責:濱村直之)
1986年度
今年も例年通り部員数が少ないのに泣かされたのだが、「国鉄改革」を調べるという目的のため、なかなか活動も盛んになった。
今年は春の撮影会をとりやめて、例年より合宿の構想をよく練った。例年、この夏期合宿と文化祭展示の関わりが何もないので、ぜひ合宿を文化祭展示に生かそうと思い、そうしたのである。夏期合宿では、行先を東北地方とし、路線や列車の役割・性格を中心に調査した。また、秋田・盛岡・仙台各鉄道管理局を訪問し、経営収支や経営努力など、六二年四月にひかえた「分割・民営化」の指針を聞き、列車を自動的に管理・制御するCTCというシステムを見学した。また、三陸鉄道本社にも訪問し、民営鉄道としての努力・成果などを聞いた。その合宿の成果は、部報と展示に生かすことができ、久し振りに興味から離れた問題をテーマとすることができた。また、従来の路線別のテーマとして、電化で消える福知山線の各列車にスポットをあて、部報に記載したと同時に写真を展示した。模型も例年より手のこんだものとなったので、とりあえず成功の年だったと思う。ただ部員が少なく、展示が雑になったのが悔やまれる。
最後に、いろいろと指導・世話をしていただいた顧問の中島先生・光国先生、その他OB諸氏に深く感謝の意を表したい。(卜部敬康)
(マスタリー第9号p191より)1975年度
- 部に昇格し、鉄道研究部となる
1972年度
1972年の広島夏期合宿(『関西学院高中部百年史』より)
1971年度
- 鉄道研究会として発足
電波部
アマチュア無線の研究・運用をするクラブ。
-
電波部の詳細
1986年度
今年の電波部は、帰国生を含めて4人という少ない人数のため、すべての活動が制約された。そんな中での今年の大きな活動の一つにアマチュア無線の復活がある。七月に無線局の免許を取得し、八、九月のニケ月間に約60局と交信を行なった。中でも八月の奄美大島の局とのFMでの交信が印象に残っている(せっかく取得した免許なので、無線の免許を持っている人は是非電波部で無線運用を受け継いでもらいたい。
- 八月二十四日から二十七日の四日間、静岡県の伊豆高原で合宿を行なった。目的は、
- オーストラリアAM局と南米局の受信
- 国内AM局モニター
- 関東・東海地区のアマチュア無線との交信
以上の三つであったが、成果はいずれも不本意なものとなってしまった。
文化祭には間に合わないと言われながらも、必死の準備でなんとか展示と部報発行(14頁百部発行)は行なったが、なにぶん少人数のため、例年より不本意なものとなった。いろいろと悔いは残るが、充実した一年間であったと思う。一旦、電波部は閉鎖されるが、また不死鳥の如く起ることを期待している。
最後に、一年間お世話して下さった林先生、また協力して下さったたくさんの方々、本当にありがとうございました。(山田博司)
(マスタリー第9号p193より)1982年度
- 部員減少に伴い生物部を中心に物理部・電波部・化学部が合併し、理科部となる。
1980年度
- ALL-JA CONTEST に参加。
1979年度
- ALL-JA CONTEST に参加。参加767局中92位
- 文化祭展示:電波をテレビ画面に映し出す装置(RTTY)の製作、アマチュア無線の公開実験など。
1978年度
- WPX-SSB CONTEST マルチオペレーター・オールバンド・マルチTX部門に参加
- ALL-JA CONTEST に参加。参加695局中81位
- 百カ国のアマチュア無線局との交信を達成しDXCC-100賞を獲得
- 文化祭でDXCC-100の交信地図、テレビゲーム、アマチュア無線を展示
1965年度
- アマチュア無線免許保持者が4名入部
- アンプ、トランシーバーなどを試作
- 戦艦、飛行機のラジコンを製作
1964年度
- 目標「我々のクラブから電波を出すこと」
1963年度
- テレビカメラ、五級受信機、光線銃を作成し文化祭で展示
- 八月二十四日から二十七日の四日間、静岡県の伊豆高原で合宿を行なった。目的は、
物理部
- 1982年に部員減少に伴い生物部を中心に物理部・電波部・化学部が合併し、理科部となる。
- 1964~1982年まで活動を繋げた
-
物理部の詳細
1982年度
- 部員減少に伴い生物部を中心に物理部・電波部・化学部が合併し、理科部となる。
1980年度
- 電気関係と天文関係を中心に活動
- 部報「SCIENCE」を発行
- 文化祭展示
- パイプの共鳴を利用したパイプスピーカー
- リサージュを描くレーザーアーム
- 迷路脱出ロボット
- プラネタリウム
1979年度
- 文化祭展示:マイコン、リニアモーターカー、液晶、サウンドエフェクターなど
1978年度
- リニアモーターカーの製作、エレクトロニクス関係、光学関係を中心に活動
- 文化祭で銀賞を受賞
- 文化祭展示
- 光学と目の錯覚を利用した「謎の十円玉」
- 光学繊維を利用したライトフラワー、ライトディスプレイ
- 音色によって光の色が変わるミュージックライト
- レーザー光線による立体写真(ホログラフィ)
- シンセライザー
- Uコンの展示と写真
- 磁気浮上方式のプロペラカー
- 空気浮上方式の疑似リニアモーターカー
1977年度
- 文化祭で銀賞を受賞
1976年度
- 文化祭で金賞を受賞
1966年度
- 文化祭展示:ミリカンの油滴実験、D-62蒸気機関車の模型製作
- 機関誌を発行
1964年度
- 文化祭展示:ミリセカントタイマー、ストロボ写真、超音波発振器、エレクトーン、鉄道研究、風洞など
文芸部
- 1964年度
- 文集「尋」を発行、1部30円で販売
- 月二回読書感想文発表会を実施
- 1963年度
- 大阪樟蔭文芸部訪問
- 「愛と死」読書会
- 文集「緑光」を発行
放送部
- 1982年度
- 2/11 兵庫県高校放送コンテストジュニア大会 ラジオ番組自由部門 制作努力賞(作品名「時代の忘れ物」)
- 6/6 第29回全国高校放送コンテスト兵庫県大会予選出場
- アナウンス部門 森宗秀敏
- ラジオ番組課題部門
- ラジオ番組自由部門
- 8/29 第二回聴覚芸術祭参加(作品名「もう一つの星」)
- 1963年度
- 礼拝時に音響設備の準備手伝いをする
- 昼食時に放送を実施(レコードの演奏、学院ニュース、座談会など)