KWANSEI GAKUIN HIGH GAKUYUKAI

KWANSEIGAKUIN HIGH SCHOOL GAKUYUKAI

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2023年度学友会役員

  • 学友会会長 笹田桃子

    会長
  • 学友会副会長 有光慶記

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  • 学友会会計 酒井涼雅

    fukukaityo
  • 学友会書記 糸谷小雪

    fukukaityo
  • 学友会総務 吉積悠史

    fukukaityo
  • 学友会総務 柴谷紗良

    nakamae

学友会会則

学友会総会

 学友会総会は学友会における最高決議機関である。例年6月に全生徒が一堂に会し、学校生活に関わるさまざまな議題について討論、決議を行う。
 2012年度の総会において学友会定期総会を増やすことが決議され、年2回(6月と年末)定期総会が開催されることとなった。

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  • 学友会報告2023年度

    2023年度学友会役員

    • 学友会会長 日野晴斗

      はじめまして、来年度、学友会会長に就任させていただく日野晴斗です。 僕はこのコロナ禍で無くなった行事を復活させ、より皆んなが思い出を作ることのできる学校作りをしたいと思っております。それを実現するためには全校生徒の団結や統率が必要です。僕はそれらを強め、無くなった行事を復活させ成功させるために全力を尽くしたいと思います。僕はまだまだ未熟者で、たくさんの方にご迷惑をお掛けするかもしれませんが、日々成長するよう努力しますので、温かい目で応援していただけると幸いです。 そして、僕たち学友会はアッセンブリーなど日々の行事に力を入れていきたいと思っています。僕たちだけでは、最高のアッセンブリーを創ることはできません。みんなの意見や声が必要です。アッセンブリーを盛り上げたいと思うので、どうかご協力ください! 「最高の一年」を一緒に作っていきましょー!

      会長
    • 学友会副会長 山崎瑛介

      学友会副会長をやらせていただいてる2年1組の山﨑瑛介です。公約の「思い出に残る1年を」を達成するために1年間頑張っていきます。 学友会に入ってから初めて知る学友会の業務もあり、とても重要な役割に自分はなったのだと再認識しました。 去年から学友会を支えてきた1、2年生5名が学友会の役員として入ってくれました。頼りっきりにならず逆に引っ張っていける副会長に日々働いていきます。 学校生徒全員が楽しい状態が1番好ましい状態だと僕は思うのでなんか悩みとか変えてほしいと思うことはなんでも学友会に伝えてほしいです。 これから一年間よろしくお願いします!

      fukukaityo
    • 学友会会計 河野柚月

      fukukaityo
    • 学友会書記 姫野美翔

      fukukaityo
    • 学友会書記 島田璃青

      fukukaityo
    • 学友会総務 笹田桃子

      fukukaityo
    • 学友会総務 仲前心輝

      nakamae
  • 学友会報告2022年度

    二〇二二年度、学友会々長を務めました、松下あおです。「松下アカ」ではなく「松下あお」です!!! この挨拶を初めて皆さんの前でしてから、すでに一年が過ぎようとしています。校内ですれ違った際などには、たくさんの方に「アカさ~~ん」と呼んでいただきました。 アッセンブリーの時には、部長である枝川先生に~~~、「次は松下アカさんよろしくお願いします~~~」と、【いじって】頂いたのも、とてもいい想い出です。 この一年間、人前に立って話しをする・・・ という経験を本当に多くさせて頂きました。 アッセンブリーでは週に一回、全校生徒の前で司会を致しました。また他にも、「教職員の集い」では、全関西学院の教職員、約300名ほどの前で、司会をさせて頂く機会を得、さらに、オープンスクールでは、受験生や受験生の保護者の方々の前で司会進行をさせて頂きました。今の時代は、やはり「笑い」をとらないと「オモシロクない~」ということで、毎回その都度、なにか「お笑いのネタ・ダジャレ」を入れるということを意識して続けてきました。アッセンブリーは週に一回もあるので毎週「ネタ・ダジャレ」を考えるのは正直大変でしたが、どうにかやり切りました。 毎週、大盛り上がり~~~!というわけにはいきませんでしたが…… 毎週、アッセンブリーが終わった後に、私の「ネタ・ダジャレ」にコメントしてくださる教師の先生がいたり、「いつも楽しみにしています~~!」と声をかけてくれる、職員の方々や生徒の皆さんがいたりと、楽しみにしてくれている方々が沢山いると知り、大変励みになったものです。これからも、もっと「ネタ・ダジャレ」を磨いていきたいと思います。 私が会長をつとめた、今年度は「学友会執行委員」という新しい制度を作り、学友会に興味がある人には全員、執行委員に入ってもらい、学友会活動を共にしました。 執行委員には、「アッセンブリー担当」「広報担当」「行事運営担当」「パンショップ見直し担当」という役割をになって頂き、それぞれに活動してもらいました。 一年生から三年生まで、二八人の役員で、とても有意義な学友会活動をすることができました。 さらに、スポーツ大会では、時間を三つに区切り、学年ごとに、「中学部グラウンド」「高等部グラウンド」「礼拝堂」の三つの場所をまわるという方法で行いました。 「部活対抗リレー」「二人三脚」「借り人競走」「気配斬り」「大声コンテスト」等々、学友会役員の斬新なアイデアの詰まったバラエティ豊かな競技を行いました。今までにはなかった競技を行ったため、準備にはとても時間がかかりましたが、学友会メンバーの頑張りがあり、大成功しました。例年とは違うやり方でしたが、とても盛り上がっていました。 他にも、「じゃんけん大会」や「クイズ企画」など、イベントを企画して、生徒が盛り上がっているのを見られた時は、やりがいを感じました。 書きたいことは、もっと沢山あるのですが、字数の制限がありますので、この辺りで失礼させていただきます。 この一年間、本当に、本当に、ありがとうございました。 全ての皆様に、衷心より感謝申し上げます。
    (2022年度学友会会長 松下あお)

  • 学友会報告2013年度

    さて、激動の1年が過ぎ去りました。(私にとって) 業績報告をまとめろ!との話を某友人から受けこうして画面に向かっているわけですが、いささか書く事が思い浮かびません。これは職務怠慢から来るものではなく、変わらぬ日常に浸りたいという甘えなのかもしれません。これを書き終えれば、僕の2013年の学友会業務は終了です。やっと責務から解放されると共に、2013年の役員たちとの学友会の物語もここで終了です。 何とも幸せで、何とも切ない悩みです。 ただ、こうして延々と身の上話をしたところでさして意味はないので、軽く業績報告をさせていただきます。 まずは新入生歓迎オリエンテーションキャンプに参加しました。前日から千狩キャンプ場へ赴き、布団運びをしました。軽く霧雨が頬を濡らす中、えいさほいさと山路を往復しました。疲れましたが、良い思い出になったと思います。私たちにも、新入生の皆にも。 学友会総会もありました。毎年必ずと言っていいほどある、議題とはかけ離れたパフォーマンス。場の空気を乱すという意味では止めてしかるべき代物ですが、あの場の空気を作ることができるのは生徒で、大多数の生徒がそのパフォーマンスを楽しんでいるという現実は、由々しき事態であると共に、変わらぬ高等部をありありと見せつけてくれるようで、その営みを止めねばならぬ責任と止めたくないという稚拙な願望の板挟みになったこともありました。また、投票の集計が、なかなか辻褄が合わず苦労しました。 関関同立の交流会では、違う毛色をした他校の生徒会役員を見られて、いい刺激になりました。学校紹介の最後に突然、某役員のKさんより高等部生の良いところを紹介してくれという依頼を受けました。何も聞かされていなかった私は当惑しましたが「良い意味で馬鹿であること」と答えました。高等部生の、一見幼稚にも見えるひたむきな行動力や、周囲を巻き込んで今の一瞬を輝こうとする姿は、他の『利口な』人間には馬鹿に見えるかもしれません。しかし、今を輝こうとする人間は、誰にもまして美しく、そして立派であると思います。私は高等部生を誇りに思います。 スポーツ大会では、人生ゲームを種目に追加しました。怪我や病気でスポーツに参加できない人も等しく楽しめるよう、また、惜しくも試合に敗れた人も同じく応援できるようにと追加してみました。皆、試合で疲れているだろうに、ゲラゲラと大声をあげて礼拝堂内を走っていましたね。あの活力を分けて欲しいぐらいです。(礼拝堂内で走るのはやめましょう) 文化祭も随分と楽しみましたね。私は今年初めての文化祭本部役員を経験しました。今までただ楽しかっただけの文化祭が、急に取り組むべき案件に変わってしまったのは少し淋しいようで、「あの笑顔を作ったのは俺たちなんだ」と、言い知れない幸せを感じもしました。 あまり長々と書き連ねるのも風情がありませんのでこれくらいにさせて頂きますが、最後に、同じ高等部生や、これを読んでいる方に向けての言葉があります。 「You can't help getting older, but you don't have to get old」 年を取るのは仕方ないが、年寄りになる必要はないという意味の、ジョージ・バーンズの言葉です。せっかくこの世に生を受けたのですから、固定観念に縛られ凝り固まった一生で虚しく死ぬだけではつまらないではありませんか。見た目は年と共に変化し老いていきますが、心を老わせ縮める必要などありません。私は高等部生は子供のような純粋な人間が多いと自負しています。 この高等部生達が、子供のような広く輝く心をもって世の中に出れば、きっと世の中はもっと明るく若々しいものになってくれることでしょう。 私は、信じています。 1年間、私を高等部の『会長』でいさせてくれてありがとうございました。 そして、もう1年お付き合い下さいね。
    (2013年度学友会会長 辻尾辰将)

  • 学友会報告2009年度

    学友会も新しい世代へと変わり、もう卒業という時期になりました。2009年度の学友会は、「前年度の土台を生かして更なる発展をしていこう」というスタンスで活動してきました。春の合宿ではスローガンが決まらなく、朝方まで話し合って、それでも決まらなく、次の日やっと決まりました。そのようにして生まれたスローガンは、『意思の加速~君の納得できるゴールへ~』でした。学友会活動や部活動、習い事など、どんなことにも、ただ成長していくだけじゃなくさらにアクセルを強めて高い意識でやっていこう、そんな思いが込められたスローガンです。この1年間は良い意味でも悪い意味でもイレギュラーなことが多かった1年だったと思います。良いこととは、野球部の70年ぶりの甲子園出場という出来事です。この甲子園出場が、僕の夏休みを、いや関学ファミリーの夏休みを"熱く"させてくれました。僕ら学友会は、アルプススタンドの応援の統括(人文字で三日月を作ったこと)とグッズ配布の手伝いをさせていただきました。先生方もバタバタしていて、断水&冷房もストップという蒸し暑すぎた日にも、先生方とああだこうだと言いながら準備をしてたのを思い出します。1回戦、酒田南に見事勝利し、甲子園球場で空の翼を声高らかに歌えたことは、本当に嬉しく最高でした!2回戦、9回表に優勝校中京大中京に追いついたときは、まさにアルプススタンドを含めた関学ファミリーが一つになった瞬間だったと思います。野球部のみんなにもう1度、ありがとうと言いたいと思います。  悪いことは、新型インフルエンザの流行です。総会と文化祭という、学友会の2大行事に影響を及ぼされました。高等部では、文化祭直前に感染がピークとなり、文化祭の開催自体が危ぶまれました。しかし、そんな中でも執行委員中心となり前向きに準備を続け、(残念ながら一部縮小はあったものの)文化祭を成功させられたことは、本当に嬉しく達成感でいっぱいでした。  この1年間、嬉しいことだけじゃなく、辛いことも悲しいこともたくさんありました。それは、僕だけじゃなく、3年生みんなが感じていることだと思います。1人ひとりが、なにか"熱いもの(気持ち)"を持って生活してきたからこそ、今こうして成長できているんだと思っています。これから、新しい生活がはじまります。僕たち3年生は、周りの人や環境に感謝することを忘れず、これからも日々『意思の加速』をしていきたいと思います。ありがとうございました。
    (2009年度学友会会長 西村脩平)

  • 学友会報告2007年度

    どうもどうも、学友会会長を一年間見事務め上げました山本竜平でございます。学友会での活動やらなんやらを4000字にまとめあげろ。という無茶な要求をされまして、少々困惑している所存です。どうして私の会長としての1年を4000字でまとめろと言うのでしょうか?少なく見積もっても20000字は必要かと思われます。しかし、短くまとめる能力に長けていなければ会長失格だと思います。リコールを要求されてもおかしくないと思います。そろそろ本題へ向かいたいのですが、なかなか焦らすことが得意なのでまだまだこんな感じでのらりくらり続けていきますよ。それにしても、こういう文章に頭には「長いようで短かったこの一年間」と書く方が多いですよね。ザ・1年の締めくくりの文章といった感じでしょうか、こんな下らない(下らないという言葉の起源を話すと長くなりますよね) ことを私は書く訳にはいかないのです。中学の時も「長いようでやっぱり長かった」と書いた気がします(気がするだけかも)やはり私の人生において、人と同じことをするということはとてつもなく嫌悪感があります。人生を道の様なものだと私は思っています。私の家庭はそこそこ裕福(いわゆるボンボン)なので、元々引かれたレールみたいなものがあると思います。自ら道を開拓するまでもなく、なんとなく生きていてもそれなりに充実した人生を送れる恵まれた環境に生を受けました。しかし、私はそんな元からあるどこにでも転がっているような道を歩くのではなく、自分だけの他の誰にも真似出来ないようなかっこいい道を自ら開拓してその上を歩きたいと思いました。私は運動的なセンスはそれほどないので、運動部で全国を目指すという夢はありませんでした。というより何か一つに打ち込んだ青春ってどこにでも転がっているので部活には入りませんでした。確かに高校生清三年間でしか味わえない部活での楽しみや思い出っていうはあると思いますが、私には無縁なものでした。運動でも文化でも活躍出来そうにない私は、この学校のこの学年で1人しかなることの出来ない学友会の会長になることを決意しました。中学部でも会長をしていた私は中学部からずっと関学にいる人にとって会長=山本になるのでしょうね、本当に気の毒でなりません。話が逸れましたが、会長になる(つまり立候補する) ことを決めても選挙によって選出されるので、まだまだ不安が残ります。私の学年は会長候補が3人いましたが、私はその中で1番票を獲得しないと、会長にはなれません。選挙に至るまでに、立会演説会があります。私は中学での経験(壇上で喋る)を生かして、1番目立ち1番票を獲得してやろうと思いました。実は高1の後半くらいから立候補を目論んでいた私は練りに練って演説の原稿を仕上げました。票を獲得するために私が演説において大事にしたポイントがあります。1番印象に残す(オーディエンスに)ことです、会長の選挙で選ぶ理由なんて大体決まっているものなのです。部活の先輩もしくは後輩、友達、誰でもいい。とまあこんな感じです、幸い私以外の立候補者に部活に入っている人がいないので、部活の先輩後輩は関係無く、「友達」と「誰でもいい」をいかに私に入れさすか、ということになります。友達を突然増やす事は不可能なので、結局大多数を占める「誰でもいい」派の人間をいかに味方につけるか、ということが勝負の分け目になると私は確信しました。「誰でもいい」派の人間は誰がなってもいいので、1番印象に残った人に票を入れるのだと思いました。誰でもいいので、公約なんかは二の次だと思っているのだろう、と推測しました。私は自称エンターテイナーなので、ステージ (壇上) に立つからには何か客を楽しませなければいけない、という衝動に駆られます。忘れている方も多いと思うので、私がプランし、実行した演説会を文章で再現してみましょう。まず出てきます、出来るだけ低い声で自己紹介(内容は忘れました)そして第1のポイント、演説会の為に用意した原稿を取り出します(ここまでは殆ど普通)そして、「これは今日の為に用意した原稿です。一生懸命考えて練りに練りました。でもー・こんなものは必要ありません!今僕の中から湧き出てくる想いを伝えたい!」と言って原稿を千切り捨てました。すかさず本物の原稿を取り出して何もなかったように演説を始めました。ここでウケたので、実質この時点で私は勝ちを確信していました。やはりつかみは大事なのでここで塔けばエラい事になるな、と思っていました。しかし、出足だけ好調で尻すぼみな結果に陥ってしまったら出オチかコイツ、ってな感じでダメな印象が残ってしまいます。そこで私は中盤から終盤にかけて「学友会と生徒達との距離感が学校として一体になれない原因だと思う」と言いながら壇上から降りて歩いて演説をしました。ここで懸念することは歩いている最中に言うことが無くなり黙って歩いてしまうことです。なので、同じ事でもいいので大きな声でアクションを交えて歩きながら演説しました。ここでも成功したので、もはや負ける気がしませんでした。後は捲くし立てるように畳み掛けてスパっと演説を終了しました。盛大な拍手を頂いたので気持ちよかったです。結果は予想通り一位で当選しました。ここから実質私の会長としての道が始まった訳です。副会長は和泉に決まり、私達は学友会本部役員を選ぶことから始めました。  ということで私の思い出2007を今から開催したいと思います。やはり2007年という年は色々あってとても思い出に残っています。オリンピックイヤーでもなければワールドカップもありません。ワールドベースボールクラシックもありませんし、世界的にちょっと一休みといった感じの年だったのではなでしょうか、そんな素敵な2007年の思い出とは数え切れないほどです。1年を振り返りながら思い出を書き連ねてみたいと思います。そうね、やはり文化祭というものは私にとってとても思い入れがありましたのでとても印象に残っています。私個人としてMr.KGと司会とライブハウスと後夜祭とに出演しました。エラい出たがりやなあ、という印象をお持ちになられる方が多いと思うと胸が熱くなりますね。Mr.KGに関しては後輩の追い上げに敵わなかったとだけ言っておきましょう。それとバンドで出たステージはとても楽しかったこと以外には触れないようにしておきましょう。この投階でもはや私の会長としての報告なんて見る影も無いのですが、関係ありません。このままグイグイいきたいと思います。これまた年末の話になるんですが、私は「ちちんぷいぷ●」という関西ローカルの番組に出演しまして、なんでも「すべらない○○を持った高校生」を募集しているとのことだったので思い切って軽くメールを送ってみたところ、すんなり出演が決定致しました。私はオチを発表されながらも必死にすべらない話を披露して関西中の爆笑を誘いました。その結果見事関西ではその名を知らぬ者がいないというところまで名を馳せてしまいました。以外と思い出が少ないということに今更ながら気付いてしまいました。学校の行事に関して言えば一つだけという結果になつてしまいました。でも、行事だなんだと言ってはいますが、私にとってクラスのみんなと過ごした1日1日の1分1秒全てが思い出です。だから私は満足しています。ものすごい歯がゆい台詞ですね。こんなことを平然と言えるような人間になりたいと思っています。関西学院高等部を卒業して関西学院大学へと進むわけですが、私の未来には希望が満ち溢れています。高等部で過ごした3年間は、両手で数え切れる程のものを得ました、本当に感謝しています。 年から担任を受け持って頂いた中尾先生にはとてもお世話になりました。素敵な仲間と素敵な先生に囲まれて過ごしたこの時は私の人生の財産になるのかもしれません。  伊代はまだ16だから、と松本伊代は歌っていましたが、私はもう18です。もはや18解禁となり、大人の仲間入りです。高校生という肩書きも無くなり、いよいよ社会へと近づいてきています。とりあえず20歳になるまでは、竜平はまだ10代だから。と言いたいと思います。色々な方向へ話しが飛んでしまって申し訳ないですが、なんとなく伝わって頂けたなら幸いです。私の会長時代を知っている方にはこんな奴がおったなあと思い出せるような会長っぶりを発揮していた気はします。そんな気がしています。それだけで私は満足です。
    (2007年度学友会会長 山本 竜平)


    う、もう3年生なのだ。高校生としての生活は終わり、次のまた新しいステージに行かなければならない時期、それが迫っているということに西室くんの一口でやっとこ気づかされたというわけだ。  9月のことである。10月だったかもしれない。なんにせよ選択授業の「文学講読A(Bだったかもしれない。なんにせよ藤田先生と英米文学を読む授業)」を受けていたときのことだった。ぼくは西重くんが文化祭でインストゥルメンタルのステージ出演をすることを知り、なぜ今までやらなかったのかと尋ねたその答えが始めの、3年生だからねというものだったわけだ。  西重くんにしてみればなんとなく言ったのであろう一言をずっと覚えてそのうえこうやって書いてしまうというのには訳がある。副会長に立候補したときの気持ちがまさにそれ、3年生だからね、だったからである。  立候補したときはまだ2年生だった。どういうことかはわからないがなぜか文化祭で我がクラス2年G組はゲートを造ることになり、さらにどういうことかはわからないがなぜぼくが責任者をすることになった。たぶん人生の中でこういった「いつの間にかなってしまった」体験を持つ人は少なくないはずだ。自分から進んで手を挙げるタイプの人間にはわからないかもしれない。野次を飛ばすばかりの人間にもわからないかもしれない。自分で言うのも何だが、きっと人間関係に打算のない人にこの「いつの間にか」体験は起こる。そして、そういう人は何事も経験だ、と自分を納得させて頑張るものである。  そうやってぼくはゲートを造り上げた。さっきから造ると書いているが別に作るでも構わない。そんな大規模なものでもなかったし、だいたいぼくは造ったというよりも監督しただけで、実際の作業からはできる限り逃げ回った。大したことはしていない。語弊があるかもしれないから言っておくが、苦労がなかったわけではない。1週間前になってもまだ骨組みの投階からそれほど進歩しておらずかなり焦ったり、外に出す際に大きすぎて出せないんじゃないかと心配したり、ワイヤーが足りなくなって買いに走ってもらっている間みんなを引き止めておかなければならなかったりした。そういった流れの中でぼくはリーダーというか上に立って指示するというのは大変だ、と「文化祭当日までにできるかな?」という妙な関東弁の心配や「なんか今年のゲートしよぼい」という見たまんまの批判、本人が一番感じている不安ごとの指摘を受けることでひしひしと学んだわけである。  結局しょほくても「完成!」と大声で製作者たちが言えればそれでよし、であって、11月4日の片付けの日にはあーもうどうでもいいや、終わった終わった、とジーパンをはさみで切って進んでいた。つまり、喉元過ぎれば熟さを忘れる、ということわざの通り、だ。また「いつの間にか」体験があれば、何事も経験と言って引き受けてしまうのである。 で、山本に会長やんの? と尋ねると「やる」と言う。副会長に橋本龍太郎が立候補しているのかと思いきやしていない。そうか、じやあオレ副会長やろう。身体の割りに手のひらが大きい人はサブリーダーに向いているって手相の本にも書いてあったし、このままでは高校3年間でゲート造っただけになりそうだ、よし立候補しよう。  それらの考えが、3年生だからねという心境と被ること山の如しなのである。  そこからごちゃごちゃとあって、そこらのことは誰にでも書けるが、総会の話はぼくにしかできないだろうからとりあえず総会の話をちゃんと書いておこう。  実はほくは高等部生のなかでも「総会不要」派であった。この「総会不要」派というのは総会に対して希望を持っていない、タンクトップ許可? あほみたいな議題だして恥ずかしくないんか、生徒会-・という派閥のことである。ちなみに高等部は生徒会ではなく学友会であるが、そのことに固執しているのは先生だけである。あとヨット部は部ではない、ということに固執しているのも先生だけである。生徒の中でそういったことを気にしている奴はほとんどいない。  そんなぼくが総会を仕切ることになった。総会は文化祭と違って先生との連絡を必要としない。先生と喋ることが苦手なぼくにとってはそれだけが楽なことだった。裏を返せば、文化祭は先生と連絡しながらやっていかなければならなかったので、とてつもなく面倒だった。  詰まるところ面倒なのは「総会不要」派の存在なのである。この派閥は潜在的な人間も含めて高等部生の九割、いや九割九分を占めている。先生よりも生徒が敵なのだ。そういったことは二年生のときのゲート造りで学んでいたはずだった。無関心派とでも名づけられる存在にクラス全貞参加の名目上頼みごとをして辛酸をなめさせられた経験があったのだ。しかし、あのゲート造りでさえも無関心派はクラスの三分の一程度であった。それに辛酸をなめさせられていたというのに学校全体の九割九分では何をなめさせられるというのか。  なめさせられたものは「椅子にバスケットをつける」「テスト範囲一覧の配布」という驚愕の議題であった。反対とか賛成とかいう次元ではない。始めから「認められれば儲けもの」といった発想で総会は成うているのである。さらに、当日は発言しにくい雰囲気で、発言があったと思ったら否定的な意見ばかり、誰がこの議題を出したのかと問いたかったくらいだ。しかもやはり結果は賛成多数、議論の意味なし。いや、総会の意味は議論だけではない、業績報告や予算・決算説明がある……多くの人が寝ているのでとても静かでした。  それでも感謝したい人がいる。古田先生と中学部の高野先生だ。古田先生はアッセンブリー中の総会説明において、ざわざわしていた状況を打破する一声を発してくださった。それも「民度が低い」という深いお言葉であった。現在の日本を叱る声に聞こえた……。ちなみに、古田先生は総会後の昼休みに否定的な意見を述べていた高等部生に「ぼくはもっと環境破壊につながるという君の意見をばしばし言ってもらいたかった」とおっしゃっていて、さすが先生、地球規模で物事を考えてらっしゃる、一高校の変化が世界に何を及ぼすのかを見通すその眼力に敬服の念を禁じえない、とぼくは感激させられた。  中学部の高野先生には中学部の椅子をお借りした。写真も撮らせていただいた。今年の総会では工夫として議邁提案書に写真を載せてみたのだ。椅子も舞台に持っていって掲げてみた。それくらいはやろうと思ったのである。結果的に反響はゼロである。でもまあいいのだ。高野先生、ありがとうございました。  そこからごちゃごちゃなくて、ここらのことは誰も何も書けないと思う。何もなかったから。  4000字分書いてと言われて今で2500字。あと1500字、何を書こう。  文化祭と総会はどちらが忙しかったですか、と尋ねられたら総会ですときっばり断言できる。他人に任せるよりも自分でやるほうが楽だと決め付けていたせいで、全て一人でやってしまった。そういうのはだめだ。他人に任せて失敗が起きて、それで仕事が増えてしまうのは嫌だからといって他人に任せずにいてはいけない。他人に任せて失敗が起きてもいいのである。それもまた面白いことだ。人間は偶然の出来事が大好きな生き物で、偶然町でばったり出会うと運命を感じるし、偶然手に取った本が一生付き添う本になったり、偶然失敗した経験が成功につながるという成功者の体験談を好んだり、自分が設定した道から外れたほうが嫌なこともあるだろうが面白いことも同じくらいある。文化祭ではそんな感じ、自分でやることは自分でやって、他人に任せるところは他人に任せて、不都合が起きたら「あらあら」とか言いながら対処して、のんびりやって、上手にいかなくても腹を立てず、これが自分の力量だと当面は諦めて、今度やるときはどうにか自分の思い描いていたもの以上を作り上げられるよう努力しょうと思いながらやった。この「当面は諦める」ことが重要である。最大限の修復は試みるが無理となったら無理と諦める、これが重要である。人は腹を立てたら終わりである。周りにも不快感を与え、自分も気持ち良くない。こんな損なこともない。今回は残念でした、次回は別のアプローチをもって成功させたいと思います、これで充分。諦めることよりも重要なのが「次回頑張る」ことである。それも今回とは異なる方法を試す、反省を活かし工夫することが重要である。毎回挑戦、毎回勝負。負けてもまだまだ先はある。勝つべきときに勝てるように、今は負けてもいい。でも、早く勝ち方を知りたい。大学生の間に勝ち方を会得したいと思う。小さな声で言いますが、総会でも文化祭でも負けました。腹は立てなかったのでそれだけはよかったと思います。あとこういった考え方を持てたのは武者小路実篤のおかげです。  学友会活動を振り返るとそういったことが思い浮かべられる。自己批判し続けること。何が良かったのか、今後どう活かしていくのか。何が悪かったのか、では今後どうすべきなのか。身をもって学ぶこと。何事も経験なのである。悔しいが、何事も経験なのである。無駄はない。夏休みをごろごろ過ごしても無駄ではない。ただ得られるものが少ないだけである。その少ないものを得た、夏休みをごろごろ過ごした高校一年生の自分にかんばい(乾杯? いや完敗)  好きにランクをつけて5つ星、4つ星、3つ星……としていくと5つ星の中には中原中也、ロートレアモン、.山田かまちといった詩人やマキシマムザホルモン、ハイロウズ、エレファントカシマシといったロックバンド、そしてこの高校生清3年間を共に過ごした友人たちの名が挙げられるのだ。  N、M、H、Y、K、M、K、H、ありがとう。  人間万歳!
    (2007年度学友会副会長 和泉 翔)


     どうも書記を1年間勤めさせてもらった西室弟です。大半の生徒は私が学友会役員であることを知らないと思います。私も自分が何の役職か忘れるときがありました。じゃあ何でこんな私が学友会役貞だったのかと疑問に思われる方もきっといると思いますので、いきさつを話そうとおもいましたが、原稿用紙が足りないので控えさせていただきます。  学友会に入っての仕事は数多くありました。私が仕事をした範囲で3つくらいなのですが、オリエンテーションキャンプ引率、アッセンブリーのパソコンのプレゼンテーション操作、スポーツ大会時に賞品のドリンクを運んだことです。とても楽しかったです。学友会の仕事はこんな風にとても中身があるもので、お勧めします。私にそんな重大な仕事を与えてくれたことに先生に感謝します。  学友会を簡単に振り返ってみますと、メンバーもなかなか個性豊かで私がそこにいることに飽きることはありませんでした。気がつけばあっという間に役員交代の時期がきました。  私たちの代は特にエンターテイメントにとんでいるとか、学校改革をしたとかそういうことがほとんどありませんでした。しいて言うならば、このマスタリーの完成度が例年では見られないような仕上がりであることが私たちの代が残せたものだと思っています。マスタリーの内容には私は一切関知していませんし、内容もほとんど把握してないのですが想像でそう言いたいと思います。  そろそろ私の学友会に対しての思いがつきてきました。こんな無駄な文章を読んでくれる人がいるのかと思うとあほらしくて笑ってしまいます。いまだにこの文章を書く理由が分かりません。しかし私は文章を書いています。この相反し矛盾する現実をあなたはどう受け止めますか?誰も興味をしめして見ないのであれば、何の記号でも文字でも書いていいんではないでしょうか。  次の数字の羅列は円周率です。 14159888321513755600372798394004159270028783076670944474560…  円周率はこのようにどこまでも続いていきます。ではこの円周率の存在はどういう意味なのでしょうか。そして人間の存在もどういう意味なのでしょうか。人間が生きてることが誰の役に立つのでしょうか。円周率もそれと一緒です。それでは、なぜ私たちは生きてるのでしょうか。お好み焼きがいつもと味が違うなと思って半分ぐらい食べ終わってマヨネーズを付け忘れていたことに気づいてちょっと残念に思うくらいのことなのかもしれません。それを最後に皆さんに問いかけたいと思います。(2004年度学友会書記 西室 智文)


    私はこのマスタリーをがんばって作りました、以上!
    (2004年度学友会報告 西村 和己)

  • 学友会報告2004年度

    学友会会長の任期を終えて思う事はとにかく好き放題、私の思うように、やりたい様にさせてもらったなあ、という事だ。  そもそも私は中学校は地元の公立中学校に通い、初めはその学区ではそこそこ頭の良いとされている某公立高枚に進学するものだと思っていた。しかし、学校見学に行ってみてその封鎖的で何の代わり映えもしないその高校に嫌気が差しこの関西学院に決めたのであった。まず、私が思っていた関西学院高等部のイメージとして (殆どが私の周りの人から吹き込まれた物ではあるが…) 1、ノビ○君みたいな奴でもモテる。2、男子校という事で厳つい先輩がいて殴られる。3、自由な校風を掲げてはいるが学生は真面目。etc…。と挙げればきりが無いが、概ね関学に対してかなりの幻想を抱いて入学した、というのは否めない事実である。いざ高校生生活が始まってみるとこれらの幻想が音をたてて崩壊していった。まあ例の1や2は自分の勘違いだったといえるが、私のイメージしていた関学生のイメージとは全く違い、茶髪やピアスなんてのは当たり前、やたらやる事が派手でしかも、個々人のポテンシャルが異常に高いというなんのこっちゃよく分らない、さもすれば高校生じゃ無いんじゃないかしら、という学生ばかりでそれまで“井の中の蛙”だった私は大きなショックを受けたのを良く覚えている。  しかし、関学での生活を送ってゆくにつれて関学の嫌な部分が見えてきた。関学は「自由な校風」というものを掲げているが、その「自由」の意味をはき違えているように思えてきたからだ。だからと言って私がその意味を理解しているとも思えないが、そんな学校にいる自分に嫌気が差したのである。あえてここではそこらの「ここがいけない」云々の言及は避けておくが、そこに関学生が一歩上へ行けない理由が見え隠れしている様な気がしていた。  ながながと脇道にそれてしまったが、私が1年生の時から文化祭執行部に所属したり学友会活動に参加したりするようになったのは関学に不満があったというよりそんな関学の中で自分の生活を面白くしたいというか、何もしていないとすぐにくさってしまう自分を駄目にしてしまわない様にしよう、という思いからだつた。そして2年生の文化祭が終わり、立候補の時期がやってきたのだが、初め先生方や先輩から薦められてもピンと来なく、かったるそうでまさか自分でもやるとは思っていなかった。そんな自分が当選して学友会長として1年間やってきたというのは正直自分でも驚きである。  2004年の学友会テーマは〝旋風″。これも私の勝手な思いつきで決まってしまったのだが、私はとても気に入っていた。何度もこのコンセプトは述べてきたところではあるが、「MASTERY」に載るということであらためて説明させて頂くと、部活や学友会、バンド活動やダンス等の学外活動にいたるまで様々な場所で〝関学″という風を起こし旋風を巻き起こして関学を更に活気あふれるものにして欲しいという思いからだ。個性が無いといわれる現代の若者にはなって欲しくないという意味合いもあった、そして1年間が終わってみて今年は関学の歴史でみても恥じない1年だったと思う。部活はアメリカンフットボールの2連覇をはじめ更なる躍進をみせてくれたし、学友会活動でも文化祭が「10年間で最高の文化祭」と絶賛の声を澄田部長から頂くほどの盛況ぶりで旋風というコンセプトに違わない1年だったのではないかと思う。余談だが、″旋風″というのは皆さんに覚えてもらって色々な場面で使ってもらおうと思っていたのだがいかがなものだろう?学友会テーマというのは掲げるのは簡単だがその意味を生徒に理解してもらって、それを実行し達成してもらえるようになるのは非常に難しい事だ。生徒一人一人が旋風を起こそうと意識し始めたなら、関学という組織・集団はその秘めているポテンシャルを更に発揮すると思う。関学はそれが可能な人達ばかりの集団なのだからそれを自覚して欲しい。今年は明確にここが成長したとは言えないかもしれないが、次年度、その次年度と受け継いでいっていけばそのうちに達成されていくのではないかと思う。  おおまかにクラブ紹介、学友会総会や盗難対策委員会、文化祭そして次期学友会選挙と通してやってきて、それが成功したかどうか等と言った事はその首謀者だった私がどうのこうの言える立場には無いと思うので内容等は特にここでは触れない。しかし、どれも私がその時々に「良い」と思えるものを行ってきたので悔いは無い。ただしその判断は皆さんにお任せします。どんな活動を行ってきてもそれに対する賛否はあると思う。それに、その様なリアクションがあった方が正常だと思うし、それ位あった方がやってきた甲斐があったというものだ。  ほかの文化祭執行委員会や運動総部、文化総部、宗教総部などのメンバーには本当にお世話になつた。特に学友会本部メンバーの清水、三村、岸野、柳田、吉富…。と本当に私のわがままに付き合ってくれて感謝感謝である。彼らがいないと今年の学友会は回転していかなかったと思っている。本当にありがとう。  ここで本当に一人ずつ名前を挙げて感謝の言葉を述べる事が出来ればいいのですが、恥ずかしいやら照れくさいやらなので又、別の機会にでも…。  しかし、本当に感謝の言葉を述べなければならないのは、他ならぬ生徒皆さんである。本当に1年間愛想も尽かさずに付き合って下さって有難うございました。学友会の活動なんて興味無かったかもしれませんが生徒の皆さんがいてこその学友会活動なので、重ね重ね有難う御座います。次年度の橋本会長率いる学友会本部、そして、これから毎年新しくなっていく学友会をどうぞよろしくお願いします。  そして、顧問の八尋先生、三木先生、その他の先生皆さん、澄田部長。本当に暖かい目で私達を見守って下さって有難う御座ました。学友会というのは独立しているからこそ、先生方との繋がりが無いと成り立ちません。先生方も今後とも学友会をよろしくお願いします。  私事ですが、母と父には本当に感謝しています。高い学費を払って僕を関西学院高等部という素晴らしい学校に3年間通わせて頂き有難う御座いました。苦労ばかり掛けましたがあなた方がいないと私は学友会会長にもなれなかったし、関学なんていうハイソな環境に身を置くことも出来ませんでした。  この文章を書き終わると共にスポーツセンターでの1泊研修から始まった、この学友会が幕を降ろします。感謝の言葉を書き出すときりがないのでここらで…。最後になりましたが、この私の稚拙で独りよがりな文章を掲載して下さった『MASTERY』と編集委員の皆さん、この文章に目を通して時間を割いて下さった方々に感謝の言葉を述べて、この文章を終わらせて頂きます。関学最高!!
    (2004年度学友会会長 中西 孝之)


    学友会副会長として過ごした一年間を、副会長としての務めを終えた今振り返るとき、決して感謝の言葉抜きでは語れない。  僕は副会長としての本来の務めを十分に果たすことはできなかった。副会長の本来の役目は、学友会本部、特に学友会長を享えて、本部がスムーズに計画を実行できるように自ら下働きを行うことだと思っている。そういう意味で言うと、僕は全く本来の役目を果たさないまま一年間を浪費してしまった気がする。振り返ってみると、自分の頼りなさとだらしなさを改めて実感する。  特に自分の無力さを痛感したのが、文化祭の時だ。周りのみんなが早くから着々と準備を進める中、僕は自分が何をすればいいのか分からず、本番間近になっていざ仕事を与えられた時には、焦ってテンパって、結局企画を十分に煮詰めないまま当日のステージを迎えてしまった。  その他にも学友会ではいろいろな行事を企画・運営してきたが、自分が成功に貢献したと思えるものが、今思う限りでは、無い。でも、そんな僕でも一年間学友会副会長としてやっていけたのは、逆に僕が、会長や書記、会計、そして顧問の先生に支えられていたからである。このマスタリーを通して皆さんに感謝したい。ありがとうございました。  個人的な反省はこれぐらいにして、学友会本部の働きも振り返ってみる。  思えば、今年の学友会は失敗からのスタートだった。結成して間もなく、学友会というものをまだつかめていなかった僕たちは、一年生歓迎アッセンプリーをグダグダなものにしてしまった。ただこの時から既に、新しいことを試みていくという僕たちのスタンスは創られ始めていた。その後毎週のアッセンブリーや放課後会議を通じて、自分達のやり方をしだいに明確にしていった。総会では、頻発していた盗難について全校生徒で考えるために、例年とは違い議題を盗難対策に絞って話し合い、その結果盗難対策委員会も発足した。また、生徒のアッセンブリーへの出席率と表彰の価値を高めるとともに、情報をより正確に全員に伝達することを目的とする、アイティー・アッセンブリーなるものを打ち出した。さらに文化祭ではステージオーディションを行い、出演者のレベルの向上を図ると共に、完成度は低かったものも含め様々な新企画を実行して、関学文化祭を例年よりもさらにグレードアップさせることに成功した。  このように、今年度の学友会本部は一年間、『新たに試みる』という自分達のスタンスを貴いた。自らのスタンスを一貫させることは、組織を取り仕切る側にとってとても大事だ。簡単なことではないが、僕たちはそれをやりきることができた。それは誇りに思っていいと思う。  来年度の学友会本部にも、期待を抱かせるメンバーが揃った。彼らには彼らのや甥方があると思う。自分達の色を最後まで失わないように、強気でいって欲しいと思う。
    (2004年度学友会副会長 清水 大介)


    今回、この原稿を書きなさいと言われて色んな事を感じた。もう卒業だとか、学友会に入ってたんだなとか、三年間短いなとか、急に部活辞めてごめんなさい皆とか。まぁ色んな事が頭に浮かんだ。しつこいようだが、僕は最初会長に立候補したが、中西君に負けた。けど、部活を辞めてまでした決断であったので、学友会に入れてもらい、書記という役職を頂いたわけである。これが僕の学友会に入った経緯である。この文を書くにあたっても最初はふざけてちょっと面白く書こうかな、学友会でもそういうポジションに見られているだろうしとか思っていたが、冬休みじっとしていたら真面目に書こうと思うようになった。人間落ち着きが必要だ。ということで、では僕から見た学友会を書いていこう。  今までの学友会はどうだったか知らないが、僕らの代の会長はきちんと会長の仕事をして、たまにおもんないけど、ほんまに頼りに出来る人であり、その人柄のせいか、他の学校の生徒会の人たちからは人気があるみたいで関西私学交流会(関西の私学の生徒会が集まって会議を開く所)の時の関学の位置は高いところにあるように思えた。僕と同じ書記の岸野は僕とは真逆で書記の仕事以上の事をしてくれて、ほんまに頼りになった。裏話ではあの赤富士米のジェフさんと一緒に司会をしたサミットのアフターパーティーで早くも政界の方々とお知り合いになられたようだ。会計の吉冨、柳田の二人は会計の仕事をきちんとこなし、本部会議では和やかなムードを作り出す役目をきっちり果たしている。いいアクセント。清水は良く寝ていた。サッカー部と学友会の二束のわらじのせいだろう。彼がアッセンブリ一等、皆の前で発言する事によってその場に落ち着きが得られていた事は確かだ。これは雰囲気がかもし出す才能であるので、羨ましい。僕の役目は……大概の事は自分の好奇心で動いていたので特に無い。反省する点は、やはり岸野に事務的な事を任せすぎていた所である。にもかかわらず彼は失敗しない所が凄い。文化祭は彼のおかげでなりたっていた。よかった所は、皆自分の仕事に責任を持って、途中で投げ出さずやりきっていた所だ。まぁ当たり前といえば当たり前だが。議論する時もきちんと皆で話し合って、きちんと物事について真剣になっていた。何か皆仲良かったような気がする。  生徒会において肝心なのは、その役職に沿った事をする能力があるうんぬんではなくそれももちろん大事だが、次の段階として自分が学校の為、自分の為、人の為に真剣になる事だと僕は実際にやってみて痛感した。関学は本当に先生が何も言ってこない。それだけに本当に自分たちが何もしなければ何も起こらない。それだけに自立というものを大切さを学んだ。自由すぎるしんどさも知った。先入観で判断するのではなく実際に体験してから判断する大切さも知った。何よりもメンバー皆人間として考え方が深かった。このような環境で過ごせた事にホンマに感謝する。ここで学んだ事をこれからも心において頑張るみたいな事はあまりにおきまりで、言いにくい。けど、ここで学んだ事は絶対これから先、役立つし、繋がると思う。それを強く感じるようになった時、この学友会を思い出したいと思う。
    (2004年度学友会書記 三村 亮介)


     学友会本部役員(書記)としての主な活動内容は、会長と副会長の事務補佐、定例会議への参加、議事の記録とプリント類作成などでした。同じく書記の三村君と連携・協力しながら、議事録を作成、本部役員として会議で発言し、必要な書類を作るという重要な仕事を何とかこなしました。  運動系クラブに属していないこともあり、比較的多くの時間を学友会活動に割くことができ、その分十分に活動へ参加出来た一方で、単独行動や伝達ミスなども多く、学友会本部役員の皆やその他関係者など大勢の人に迷惑をかけてしまうことも多かったと思います。申し訳ありませんでした。また活動の大半でもあった書類関係についてですが、私が作成しカプリント(特に総会と選挙関係)は前年度と比べてかなり多く、次年度以降何か参考になるところもあるだろうと自負していますので、本部役員・会計の柳田君と吉富君による予算決算関連の書類を併せて参照の上、資料として活用してもらいたいと思います。  学友会総会の議題をはじめ、文化祭への準備、学友会のあり方と改善方法や高等部での生活環境向上などを、時間をかけて幅広い視野で深い部分まで役員として話し合えたことは、本部役員としての貴重な経験であったと思います。本年の学友会本部は、初めて行う活動を多く発案・実行しました。アッセンブリーの意識改革を目指した頻繁なプロジェクターの使用や、特別部局としての盗難対策委員会の発足、学友会スローガン「旋風」の実現の前提となる、学友会本部と他組織・全校生徒との敷居をなくそうという方針による諸活動などに閲しで、自分もその一役を買えたことを嬉しく思っています。  最後になりましたが、2004年の学友会本部諸活動の実現と成功は、本部役員のみならず、全て顧問である八尋先生の御尽力によるものであったという事実をここに記しておきます。  八尋先生、1年間本当にありがとう御座いました。
    (2004年度学友会書記 岸野 浩一)


     僕は、学友会本部の会計という仕事をした。この一年間、それなりにいろいろな壁があり、なんとか乗り越えた気分でいる。ではまず、僕がなぜ会計をすることになったかを話したいと思う。  この文章を書く参考にするために数冊の「MASTERY」を読んだ。するとやはり、会長に誘われる人が圧倒的に多く、僕みたいに自分からやりたいと言って立候補した人は少ないようだった。前から何か委員とかやってみたら得るものがあるんじゃないか、なんとなぁく過ごじてきた関学での生活を、より充実させられるのではないか、と思っていたので二学期の会長副会長選挙で、中西と清水が選ばれた時に今まで委員なんてものになったことはなかったが、なんとなくおもしろそうなので、学友会に入ってみよかなぁと思った。去年の学友会会計の先輩に中学時代仲良くしてもらっていたこともあって、会計とかやってみよかなあと思って、中西に申し出た。中西は一年生のときに同じクラスで、清水とは中高ずっとクラスもクラブも同じで、これも何かの縁だろうと思った。また、彼の気質をそれなりに理解している僕がそばに居てあげないと、とも思った。まあそんなこんなで新学友会が始まった。  では次に、仕事内容について。会計の仕事というものはそんなに多くはない。はじめの仕事は決算報告と予算報告を学友会総会で、あとは文化祭の収支ぐらい。さらりと言ったが、文化祭は少し大変だった。ただでさえ、「めんどくさい」が口癖の僕にはこんな緻密な作業…。また、訳あって僕は、できるだけたくさんの仕事をひとりでやろうと思い、文化祭の前年度の引継分を含んだ会計資料を大量に抱え込んだ。自転車の前カゴにA3ぐらいの茶封筒を二つ入れて通学するのがどれだけめんどくさかったことか。また、文化祭後には領収書の束相手に夜な夜な僕の部屋で吉富と格闘した。なんでこんな雑な貼り方をするんだと、小一時間問い詰めたくなるような団体もあった。廊下を歩いていると、「はやく金かえしてくれ」と、借金の取り立てみたいに催促してくる人たちもいた。別に意地悪してお金が渡せないのではなく、備品管理の決算がまとまってないせいなのに…。  しかし、会計の仕事なんてこの一年間での仕事量のうち三割ぐらいでした。学友会役員としての仕事のほうが大変、というほどでもないけど、それなりに濃かったように思う。三年生送別アッセンに始まり、新入生歓迎アッセン、総会、文化祭、選挙に終わる。三ケ月に一回、関西私学交流会の会議やボランティア活動などもあった。いろいろ行事があったわけだが、一番のターニングポイントは新入生歓迎アッセンだった。歓迎という意味では成功だったのかもしれないが、企画がうまくいかず、反省材料が多く残った。そこから何が変わったのかはわからないが、あとの行事は全部成功だった。やっぱりあれ、結束というかそういうチームワークみたいなものが生まれたと思う。  三年生の人はあまり知らないだろうが、学友会顧問は今年度から、社会科の八尋先生だった。この一年を終えて、八尋先生の偉大さを知った。高等部の先生で、ここまで柔らかな情熱を持った方が他にいるだろうかと思う。なんというか明るくて話しやすくて褒め上手な人で、しかもいやらしくない、人間的にも素晴らしい人だった。学友会に至らない点がたくさんあったと思うが、一年間で八尋先生は一度も怒ったりしなかった。あぁすごい、まるで菩薩。うちの担任とは違う意味で気の長い方だった。八尋先生じゃなかったら、きっと今年の学友会はここまで良くならなかったと思う。  学友会に入って得たものは本当にたくさんある。もし人ってなかったらと思うと、恐ろしい。大げさかもしれないが確実に僕の人生は変わった。ケガで部活がお先真っ暗だった僕には、何か打ち込めるものが必要だったのだが、会計やっててよかったぁと思う。顧問の福嶋先生にいろいろと迷惑をかけてしまったが、仕事の理解がある方で本当に助かった。  なんか、「俺は頑張ったんだぞ、えっへん」みたいな文章になってしまったが、無気力な僕がここまでやってこれたのは、たくさん…というほどでもないが周りの人に褒められ、応援されたからだ。そして、何よりも一番そばにいて支えていてくれた人に感謝する。  最後に、今年はメンバーのバランスが良くとれていたと思う。会計は、裏方好きな僕と悩める肉体派吉富、書記は、文化祭で花を咲かせた恐そうなお兄さん三村、一言では表現できない凄さと仕事の早さと神憑った手腕の見た目サラリーマン岸野、副会長はやればできるどこでも寝れる責任感の強い清水、そして会長は大舞台でも緊張せずに僕に無いものを本当にたくさん持っている中西。素晴らしいメンバーだった。お互いがお互いに無いものを持ち合わせ、ひとつの大きな風となって関学に旋風を起こせたと思う。
    (2004年度学友会会計 桝田 康博)

  • 学友会報告2003年度

    2001年春、俺は希望と期待を胸いっぱいに抱えて入学した。関西学院の中学部で過ごした俺は、中学部の規律の厳しさに不満ばかりを覚えていた。中学部生だった俺の目から見れば高校はパラダイス生活のように思えた。髪の毛が長かろうが茶色でも金色でもアフロでも構わない。制服を着る規律もなくピアスもOK、これぞパラダイス。  入学当初、この“自由”の名のもとに大いにはじけた。俺が望んだパラダイス生活が1ケ月、2ケ月と過ぎた……が、そこに充実という言葉はなかった。毎日、目的もなく空いた時間をふらふらと生活していた俺の心には、ぽっかり大きな穴が開いていた。“自由”を求めて入学し、“自由”について苦しみだした。“自由”というのは恐いものだった  この学校では楽をしようと思えば、好きなだけ楽にできる。しかし、その時間を果たして意味もなく過ごして良いのだろうか。もし、自分に目的ややりたいことを選択することができれば、十分な時間を使って充実した時間を過ごすことができるだろう。こう考えた俺は、様々な分野に挑戦した。サーフィン、ダンス、ボクシング、柔道、バンド活動、アルバイト……。  大学受験を控えている高校生にとっては、決して経験することのない経験をした。そして様々な人と出会い様々な人の生き方を知った。人と出会い、世の中を知り、自分について考え、将来について考える。このことは、俺の中で、とても重要なことだった。しかし、周りの関学生にはこの意識は薄かった。2年生の冬、俺は思った。学生のトップに立ち学校を変えてやろうと。そして、学友会選挙を経て、副会長の石井君と共に学友会に就任した。そして、意識の変化をするために、生徒委員に「なりたい、興味のある職業」を書いてもらい、実際に今現役で働いている人を招く講演会を実施した。1位が芸人であったため、マジシャンと吉本の“笑い飯”を招いた。この講演会で、「学生に戻ったら何がしたいか」や「なぜこの職を選んだのか」などの質問の答えから生徒一人一人が少しは考える時間を持てたと思う。  自由の中で生きてゆくための“自己選択”“自己決定”“自己責任”を行う力を、一人一人が養っていけたら、もっとこの学校は活気に満ち溢れた、光り輝く学校になると思う。この3年間本当にがむしゃらに走ってきた。 先生、尊敬する友人、そして父と母、迷惑ばかり、かけてすいませんでした。そして支えてくれてマヂありがとー。
    (2003年度学友会会長 西山 直隆)


    副会長の仕事を終え、『学友会』とは関西学院高等部をそっくりそのまま表す組織、集団であると心から感じた。自らの意思を持ってやりたいと思ったことは、計画を立て、会議を繰り返し、実行することでほとんど成し遂げることができる。しかし、2003年度学友会はやりたいことを全て実行しただろうか……。  まず、会長と二人で1月~3月にかけて、兵庫県の私学高校にむけてアンケートを送った。まだ、要領をまったく把握していなかったので、文書を作成し、宛名を書き、郵送するたったそれだけのことに、2ケ月も費やしてしまった。このアンケートの返信内容によってはこの期に活用する、といった話も二人でしていたが、結局活用される、ことなく今も学友会室に眠ったままである。その後は、二人とも少し疲れたのか、特にこれといって何かをやろう……ということはなかった。ただ、学校行事の運営に携わっていただけであった。  僕自身、立候補選挙のときに話したが、想像力(imagination)と創造力(creation)がほとんどない。それにつけ加え、様々な環境(たとえそれがすばらしい環境であってもひどい環境であっても)に不満を感じることなく、うまく適応していく能力を持っていることもあり、この高等部に不満を感じるどころか、まったく適応してしまい、何も望むことがない状態であった。生徒会に立候補する人といえば、たいてい何かの不満を持ち、それを生徒の代表として学校側に提示し、変えていこうという意思を持っているものであろう。しかし、僕はまったくそんな意思はなかった。これっぼっちもなかった。では、なぜ立候補したのか……やはり会長の西山君が立候補したからであろう。  彼とは中学のころから陸上部でともに練習したり、文化祭ではバンドを組んだりと仲良くやっていた。中学生らしくそれなりに悪いこともいろいろやったやんちゃ坊主ではあったが、陸上部副キャプテンをやるなど、芯はしっかりしていることはわかっていた。高等部に入り、やはり“はじけてしまった”時期もあったが、2年生位から落ち着いて様々なことに取り組むようになって彼の“芯”の部分が成長し、表に出てきました。そして、彼に立候補を誘われた。彼は想像力と創造力を兼ね備え、すばらしいアイデアを考え出す。そして頭もいい。wiseといったところだろうか?勉強というよりも戦略的・計画的なずるがしこい頭である。彼のためにも自分のためにも学友会はいい機会となるだろう、そう思い彼をサポートすることを決めた。これが立候補の主な理由であった。  彼と一緒に活動する中で様々な新しい価値観・考え方を得ることができた。最も印象的で覚えているのが……高等部はエスカレーター式で大学に進学することができる。それにつけ加え、社会との接触がなさ過ぎることもつけ加えて、生徒一人ひとりが進路を考えることがほとんどないのではないだろうか。ならば社会との接点を増やす、進路を考えるきっかけとなるようなことはできないだろうか。……行われたのが職業アンケートである。結果、1位芸人2位政治家3位弁護士となった。そして、芝川先生のご協力もあり、「笑い飯」を招待し、講演会を開くことができた。ぶっちゃけ、あの講演会は本来学友会が臨んでいた主旨とはちょいとというか、だいぶずれてしまったのかもしれないが、講演会を開けたということを生徒たちに分かってもらえたのがよかったと思う。  2003年度学友会テーマは“光輝”。すばらしいテーマであったと思う。私はとても気に入っている。コンセプトもすばらしかった。昨年度の“自制心”を基礎として、一人ひとりがより活発に自らのやりたいことを成し遂げ、この世の中に光り輝く存在となって欲しい、そういう願いがこめられていた。しかし、テーマを掲げるのは簡単である。実際にそれを生徒に理解してもらい、そうなってもらえるようにこちらから働きかけるのは並大抵のことではなかった。生徒一人ひとりが自覚して、光り輝こうとすることができるなら、高等部という集団はすさまじいレベルの集団であると思う。さすがに、昨年と比べて目に見えて大きく変化したということはなかった。が、しかし、文化祭ではちょっとした進歩が見られたのではないか。私はそう感じている。  2003年度の文化祭のテーマは“俺等関学生”。分かりやすくはっきりした、かつ、光輝にも沿っているテーマであった。食品サークルの審査を厳しくすることにより、やはりレベルの高い食べ物を来客の方々に提供できたと思う。また、1年生のクラス展は文化祭執行委員会からのある程度の提示を元に実行され、委員が最後まで実況を把握しながら見て回ることにより、参加しやすいものとなったはずである。2年生の新しい試みであった垂れ幕。当日の天候には泣かされたが、校舎の中から見ただけでもインパクトがあっただけに、来客のかたがたには中庭から見上げていただきたかった。ぜひ、来年も垂れ幕を作ってもらいたい。だが、私の最も印象に残っているのは、礼拝堂で行われた、ダンスである。あのダンスを見て、おそらく来客の方々も、高等部の生徒たちも何か感じるものがあったと思う。ただかっこいいだけではない。何か特別なものを感じたのではないだろうか。あれが“光輝”のひとつの姿であったと私は感じた。彼らは光り輝いていた。そして、それを見つめる高等部生の日も光り輝こうとする日であった。その瞬間に、高等部の集団のレベルの高さを改めて感じた。  2003年度、学友会が行ってきた活動を通して、生徒たちに利が会ったか、生徒たちに何か変化をもたらせたかどうかは私には分からない。だが、私は高等部というすばらしい人間たちの集まりの前に立ち、違った視点で見てその集団からとても大切なことを学んだ。そして、会長との1年間の活動においても同じである。違った視点からまた、彼からもいろんなことを学んだ。 感謝……。感謝。これからもさらなる成長を続けていきたい。
    (2003年度学友会副会長 石井 健太)


    今年の企画広報部は、部員が僕一人しかいなかったので、とても忙しかったように思います。文化祭でも、各校への案内などは、ほかにも二、三人の協力があってできました。パンフレットなども、執行委員以外で手伝ってくれた人もおり、非常に感謝しています。学友会の企画と広報という責任の重い役で忙しい毎日でしたが、非常にやりがいのある仕事でしたし、仕事をやり終えた後の達成感は格別のものがありました。僕自身、よい経験ができましたし、僕の仕事を支えてくれた、学友会会長の西山君、副会長の石井君、その他多くのスタッフに感謝しています。
    (2003年度学友会企画広報部長 築山 公一)


  • 学友会報告1999年度

    僕は、関学高の学友会会長になった事を今でも、そしてこれからもずっと誇りにし続けたいと思っています。  会長になった当時は、具体的に何をしてよいかわからなかったけれども、役員との話し合いで、取りあえず、いきなり大きな事をするより、目の前にある問題をコツコツと解決して行ったら良いのではないかという事になりました。  目の前にある問題とは、長年続いている「盗難」や「アッセンブリーへの生徒の考え方」などがあり、それらを一つ一つ解決しようと努力しました。実際、盗難の問題への取り組みは、呼びかけ、ポスターなどを使って頻繁に行い、その結果、一時はかなり発生件数が減りました。結局、最後までそれをやり通す事ができませんでしたが、少しでも効果があった事はとても大きな意味を持っていると思います。  僕自身、今までの会長とは少し違う所を見せていこうと思い、自分を作らず、勝負してきました。その結果、やり残した事はあったけれども、自分との勝負には勝てたと思っています。自分で言うのもどうかと思いますが、会長の固いイメージを変える事が出来たと思っています。そして、会長になった事をこれからも胸において行動していきたいと思っています。  最後に、生徒の皆へは、自分を偽らず、常に正直に、色んな壁がでてきてもぶつかってほしいと思っています。夢を持ってそれにチャレンジしてみて下さい。夢は、夢を持ち続けて、それに向けて努力し、はね返されても突き進んで行った者だけに与えられるものだと思うのです。  皆さん頑張って下さい。  一年間ありがとうございました。
    (1999年度学友会会長 永田 靖史 )


    ここ数週間の間に、編集局鯖尻氏からの電話が数回あった。そう、この原稿の、催促の電話である。延ばし延ばしにしてきた締め切り逃れも、この辺りがそろそろ年貢の納め時であろうか。覚悟を決めて、ペンをとることとした(正確にいえば、キーボードに指を置くことにした、となるだろうか。入力の手間が省けるデジタル納稿であることに、鯖尻氏には感謝してもらいたい)。  さて、はじめに、この一年間で広報部として行った行動を振り返ってみたいと思う。活動のほとんどはパソコンを使って計画したため、その中に保存されている書類を表示すれば、今までにこなした業務が一目瞭然というわけだ。画面上の“Old Projects”フォルダをクリックして開き、さらに〝学友会〟フォルダを開けば、そこには一年間の軌跡が表示される (いや、そんなに大したものではないのだが)。  それでもコツコツとためてきた仕事たちの残骸はそれなりの量になるもので、気がつけばフロッピーにしておよそ29枚分もの量が蓄積されていた。項目を修正日順にソート(並び替え)して、古いものから順に見てみよう。  最も古いフォルダは、“Theなかだ”と命名されているようだ。このフォルダはさらにもう一つのフォルダが内包されていて、”1999/02/01発行分”となっている。なるほど、“Theなかだ”は二月一日発行分のほかにも制作される予定であったが、どうやらその後は手が回らず、自然消滅となっていたらしい。せっかくなので、二月一日発行分だけでも内容を振り返ってみることにしよう。  記事のヘッドラインには“生徒の意見が/はっきりと/反映されるようにしたい”とある。これは一月に学友会が発足した時点での、その先一年間の目標のようなものだったと記憶している。それが達成できたかどうかはまた別の問題として(あえて結果を問われればYesとはいい難いが)、目標としてはなかなかいいと思う。僕はこの一年間勝手に“ベクトル”というキーワードを選んでやってきた。方向性と力の大きさが重要、という意味である。はじめに何をするのかをはっきりと定め、あとはその方向に向かってできるだけ大きな矢印を描くのである。広報としても、学友会が目指す方向をできるだけ確実に伝えることを当初の目標としていた。ただ、残念ながら、学友会としての方向性が浮かび上がったのが、時期的には少々遅かったような気はするが。  また、“Theなかだ”のほかの記事としては、“サービスリーダーを配置”“弁護士制度”などがある。前者は乱れ気味であったアッセンブリーの雰囲気を正すためアッセンブリー中のチャペル通路にサービスリーダーの人を配置し、騒がしい人に注意をする、というものである。これについては学友会室でも意見が分かれた。自治として正しいという意見もあれば、威圧的に注意するのは好ましくないという意見もあった。僕としては当時はあまり肯定的ではなかったのだが、後になって振り返ってみれば、これでさえ学友会として示された数少ない貴重な“方向性”の一つであるとさえ思えてくる。何ごとも、やらないよりはやる方がいいのだろうか(この疑問は、あえて残しておくことにしたい)。驚くことに、“Theなかだ”はWebブラウザを使って編集されている。インターネットのページを見るときに使う、あれである。HTMLソースを書いて……と表現すれば、分かるヒトには分かってもらえるだろうか。なぜこんなことをしたかといえば、適切なソフトウェアを持たなかったからだ。画像編集用のソフトを使って強引にやるという手もあったのだが、後々の構成作業を考えてこれはやめた。いずれにせよ、このような苦労が端々にあったのである。これは単なる自慢としてではなく、今後、継ぎはぎだらけではないスムーズな計画進行を心掛けるという、自分への教訓として書いておきたいと思う。
    (1999年度学友会広報部長 石崎 圭)

  • 学友会報告1998年度

    蓋を開ければ、そこは戦場だった…
    ちょうど一年間、私は学友会会長に晴れて当選したわけであるが、その当選した瞬間から、高等部という戦場でのバトルが繰り広げられたのであった。何故戦場なのか、おそらく高等部生であれば、言わなくても分かると思う。特に今年は、高等部の五〇周年を記念する年であったり、野球部が春の選抜に出場するなどで、普段の学友会活動にまして仕事が増え、最初から落ち着かない日々が続いた。  しかし、私が言おうとしている戦争というのは、こういうことではない。高等部生の皆であれば、分かるであろうそれは紛れもなく「高等部における学校改革」である。一言に学校改革といっても、その数は計り知れない。生徒と教師間の問題から議題箱(生徒の意見箱)に入っている個人の意見まで、幅広くいわれる。  当然ながら、学校改革をするには、高等部生が協力しなければ、何も始まらない。そこで今年度のスローガンを「皆で協力」とした。今年度の学友会の改革案はすべて、民主的にする―つまり生徒の意見を尊重する考え方に基づいて進められた。具体的にいえば、アッセンブリーの充実化・広報の充実化・生徒の教師に対するアンケートをはじめとして、さまざまなことに取り組んだ。  ここで、学友会役員を紹介する。聞く者全員を震えさせてしまうほどのすばらしい歌唱力を持つ副会長の東海君、いつも辛口の発言をし、また手際よく物事をこなしたビジュアル系の会計溝畑君、ゴルフ部の部長を務めつつも陶芸やテニスもこなした同じく会計の野口君、とても優しく、真面目で人一倍優れた行動力を持ち、また写真部の部長を務めていた書記の萬代君、元陸上部だけあって、人一倍優れた持久力と、思考力と行動力をもつ有能な同じく書記の村田君。彼らは本当にすごい。私と彼ら五人が今年度の学友会を主に担った六人である。  この私たちが取り組んできたことは、全て高等部生全員が絶対に参加することか、絶対に目を通すものであった。だから、最初のうちは浸透しにくかったことも、のちのちには私たちの目的、そして活動状況が伝わったはずである。しかし高等部生九一六人いれば、いくら私たちが試行錯誤して頑張ったからといって、全員が納得してくれるとは、まず思わない。というか絶対にあり得ない。  すっかり、高等部に根づいてしまった口ぐせ「キシー」は、今年度も一部の生徒により引き起こされた。高等部生の人には言うまでもないが、この「キシー」という言葉は、主にアッセンブリー中に発声される。無論、以前は「シー」だったが…。この言葉は、多くの壇上で話す者に対して投げかけられ、その者たちを精神的につぶしてしまう最悪の言葉である。  何故、このような言葉を平気で発することができるのか。このような間接的な手段で他者を非難・侮辱するよりも、まだ、直接文句をいうか、殴り合いのけんかをする方が何百倍もましである。要するに、そのような言葉を発する人達は、相手に自分の意見を直接言う勇気が無い、弱い者たちだと思う。だから以前私も、この「キシー」という言葉を投げかけられたことがあったが、その時、もう腹を立てることは無かった。むしろ、哀れみを覚えた。それと同時に、「私は何故このような生徒のために、努力しているのか」というなんとも言えない脱力感を味わったことを今でも覚えている。  「しかし、そんなことを考えていてはいけないのだ!」と思ったのは、こういう一部の人を除く多くの友達からのアドバイス・励ましがあったからだ。そして誰よりも長い時間共に活動してきた役員のメンバー、そして総部長、委員長、総務局のメンバーは行動で示してくれた。  これらの苦難を克服した私たちは、計り知れない努力を苦ともせず頑張り通した。3E桐野君、同じく3E上田君そして、四〇代後半にさしかかろうとしているにも拘わらず余力を全て使い果たしてくれた3A川中氏を筆頭とする一〇〇人を超える文化祭メンバーと共に、文化祭運営を実施し、高等部生全員の努力が実ったすばらしい文化祭ができた。  そして、最後の学友会活動である「学校改革第一弾-授業について」を実施すべく、小村部長、崎副部長と長時間にわたる討議をして承諾を得た後すぐに、取りかかった。この革命的改革の具体的なことは「学校改革について」でまた見てほしい。  今ここに書いたことは、ほんの一部の出来事にすぎない。これ以外にも書き切れないほど多くの貴重な体験をした。最後に、本当に今まで共に喜び、時には悲しみを分かち合ってきてくれた多くの友人、そして先生方に感謝をしたい。これからの高等部のますますの発展に心を寄せて…。
    (1998年度学友会会長 山本 真一郎)


    私が、会計になった理由は、会長の山本君から会計にならないかという誘いがあったからである。それまで私は、委員を進んでするタイプではなく、一年の一学期に一回だけコミティーをしただけで、あまりパッとはしない生徒だった。しかし、私はその誘いにのってしまったのだ。委員をあまりしない私が、会計という大役をしようと突き動かしたのが 「自分の視野を広げたい」という思いからである。私は、自分の時間を自分のためだけにしか使わないし、自分と関係ないことは無視するといういたって利己主義な考えの持ち主だったから、「これではだめだ。」と思い、自分を変えようというのが視野を広げるという思いにつながっていたのだ。  このような思いで会計になったが、活動してみると、私が嫌いな会議ばかりだった。この会議は非常につらかった。まず時間が長い。その次に、内容が煮つまらない。すぐ雑談になる。最後になると、だれか一人の意見に賛同してしまう。このような会議だった。私は、学友会会計をしているのと同時に、ゴルフ部のキャプテンをしていました。キャプテンとして練習に出ないといけないのに、会議に出ている時は、さすがに会計をしたことを失敗したかなぁと思った。ゴルフと会計との両立が私にとって最大の重荷だった。しかし、今年の学友会メンバーは、私のこの状況をよく理解してくれたことが幸いであった。この苦労は、任期が終わるまでずっと続いた。私の苦労ばかり書き綴っていたら、今後会計になる人がいなくなるので、次によかったことを書こうと思う。  私が、学友会活動で得たもので私の視野を広げてくれたのが、私のまわりにいる学友会活動をしている奴らの、才能のすばらしさに気付けたことである。会議をすれば、必ず説得力のある話をし、会議を自分のペースヘともっていく奴。会議の内容を綿密に記録することが上手な奴。司会がうまい奴。もの知りで大人みたいな考え方ができる奴。機械類の修理がうまい奴。挙げてみるときりがないほどすごい奴が多かった。いろんな人間の良い点を見ることができたことが私にとって非常にプラスとなっていることは確かである。  会計としての感想なのに全く会計の話が出てこないのは、はっきり言って会計の仕事をすべて溝畑君にまかせっきりにしてきたからであろう。文化祭で金券を売ったことくらいしか会計としての仕事はしていない。しかし、私は役員としての仕事はしました。役員としての仕事は、アッセンブリーの制作や総会の準備、文化祭関係の準備などで、大半は会議です。地味な仕事で、前に挙げたとおり、会議嫌いな私にとってはつらい仕事だったが、得たものは大きかったと思う。山本君の会計の誘いが私にとっては非常によかったことだと私は思っている。
    (1998年度学友会会計 野口 晃平)


    去年の二月頃、僕は会計になることが決まった。僕は、中学部でも生徒会役員をしていて、結構仕事は楽だったので、高等部学友会も楽だろうと、甘い考えをもっていた。しかし、前任の西室さんと鈴木さんから仕事の内容をうかがったら、全く意味が分からなかった。今年は、もう一人の会計の野口が運動部に所属していたので、僕が一般会計の仕事をすることになってしまった。  とりあえず、会計の主な仕事について記すことにしよう。  第一に、今年度の学友会予算の決定、前年度の学友会決算の報告をした。この仕事が最初の会計としての仕事だったので、必死に試行錯誤した結果、きちんとした予算を組めたと思う。  第二に、クラブ活動補助費の支給をした。これは、近畿大会以上の大会に出場したクラブに支払われた。これは、楽な仕事だった。  第三に、文化祭関係の仕事があった。最初に文化祭の予算の配分を考、え、文化祭の会計や補助金に関するプリントをつくったりした。何度も内容を変更したため、これにかなりの時間を費やしてしまった。そうこうしているうちに、文化祭週間に突入した。文化祭週間に突入してからは、毎日七時すぎまで学枚で作業をしていた。この間にやった仕事は、ここに書き切れないほどに多いので、省略させてもらう。そしていよいよ文化祭当日、どこにも行けず、とても疲れた。文化祭が終われば、会計以外のスタッフは仕事がなくなるが会計は決算をしなければならず、その仕事が一月末まで続いた。  そして、来年の会計を引き継いでくれる人へ。とりあえず、予算は早めに決めること。しんどくて、面倒臭い仕事だったけれど、仕事を終えた後の充実感はあったと思う。 最後に、色々と助言して下さった後藤先生、福嶋先生にこの場を借りて、お礼を述べたいと思う。また、色々と手伝ってくれた学友会役員、文化祭執行委員のみんな、ありがとう。どうも、一年間お疲れ様でした。
    (1998年度学友会会計 溝畑 幸伸)


    一年間書記をやってみて、思ったより大変だった。実際のところ書記とはいいながら、書記の仕事より他の仕事をたくきんしていたような気がしました。いろいろやりたいことがあったのですが、できないこともたくさんありました。  一年間でした仕事の中で一番大きな仕事は、選挙管理委員でした。今年はリコール問題もおこり大変だったし、次期会長・副会長選挙でも三人ずつの候補が出て、決選投票になったりと、いろいろなことがありました。また広報の仕事の手伝いや、印刷、コピーなどの学友会の雑用係みたいな動きをしていました。  最初、書記を軽い気持ちでやろうと引き受けました。しかしやっていくたびに、少しずつ真剣になって、最後には思いきり仕事にとりくんでいました。始まったばかりの時はあまりいそがしくなく、気が楽だったのですが、時がたつにつれていそがしくなり、本気になっていました。総会前には夜の十時頃まで残ってやっていました。文化祭の時も、ほぼ毎日八時頃まで残って活動していました。いろいろあったけど、この一年間は楽しく、充実したものだったと思います。
    (1998年度学友会書記 村田 昌平)


    平成十年度つまり我々が3年生だった年は高等部やその多くの人にとって記念になる年だったかも知れません。春の甲子園出場や新制高等部五十周年関連の特別な行事もあり、私も学友会役員として考えていた以上に実の詰まった一年を送りました。今になってやっと一年を振り返ってみて内心ほっとします。  その一年分の経験の中には正直なところ辛いと感じることも少なくありませんでした。毎日続いた議論の応酬も、総会などの行事の奥深さも、自分たちの活動を理解してもらえないもどかしさも、何もかも初めてのことに戸惑いを感じたのは私だけではなかったかも知れません。次々と迫り来る行事と難題にぶち当たり、この役に就いたことを悔いたこともあったでしょう。  こうして振り返ると必ず一つの問いが浮かんできます。それは自分はこの一年、役員として何をすることができたか、という自身への問いです。とかく目に見える結果が求められることが多かった気がしますが、その中で求めることに応え、自分たちなりの目標に到達できたかどうかは不安です。しかし先の問いの答えが見つからないわけではありません。  今年会長の山本君が掲げたテーマに、皆で協力というものがあります。私一人で学校のために、全校生のためにできたことは皆無に等しいかもしれません。しかし他の役員や各担当の人、顧問の福嶋先生らと協力してできたことは、きっとたくさんあると思います。どんな行事一つにも、知られることはないでしょうがかなり長い時を費やして議論がつづけられました。もし失敗があればその原因も探り出して次はどうするべきか、今最も必要な活動は何か、と考えふと立ち止まった時にそれをここまで乗り越えてこられたのは、周りの人にいつも支えられていたからに他ならないと思います。また私は高等部の枠を超えてそのつながりを持つ機会にも恵まれました。あるきっかけでボランティアに関わるようになり、大学構内にある関西学院の組織ヒューマンサービスセンターや、お隣県立西宮高校の方にも大変お世話になり、感謝しています。 こうして大切な経験を手にして任期を終えることができたことはそれだけで一つの私の財産であり、誇りです。  これからもずっと役員会は高等部の中心となる生徒の、さらに中心的存在として続いていくことでしょう。その際に必要なものは、中心を担っていくことへの自信であることも学びとりました。こんな私が偉そうな事を言うつもりはありませんが、自信があれば意外なこともできるものです。初めての経験も多いと思いますが、それは誰でも同じです。役員二年目という人はまずいませんから、遠慮なく突き進んでいけばいいと思います。  以上、稚拙なこの文章が、私がこの高等部で学友会書記を担当した証になれば幸いです。
    (1998年度学友会書記 萬代 書幸)


    皆さんは企画部の存在を知っておられただろうか。恐らく殆どの人は知らなかったであろう。企画という仕事上、当然人前に出ることはないのであるから、知らなくて当たり前である。しかし、存在自体が知られていない我々企画部の活動は皆さんの想像を造かに越える精力的なものであった。その活動の所産の一部を皆さんに報告したいと思う。  例年の企画部の仕事は新入生歓迎アッセンブリーの企画だけであったのだが、我々が就任した時は六月のことであったので、勿論それは既に終わっており、何をすべきか迷ったものであった。そこで、第一回会議に於いて、我々は「今の高等部に欠けている視点、即ち普通の生徒からの視点に立った企画を練る」という基本原則を採択した。この原則と役員会の意向に沿って、企画部の一年間の活動の目安となった活動方針が策定された。  その企画部活動方針は(1)学友会が身近になる為の企画(高等部自治の発展)、(2)高等部生が求める企画、(3)愛校精神に基づいた高等部の為の企画、(4)生徒・教師・保護者の三者の相互理解、信頼できる為の企画(学校共同体構想)、(5)生徒継承の自治の為の企画、というものである。  企画部は以上の方針のもと、幾十に渡る企画・提言を役員会に提出した。我々は与えられた企画立案という重責を大いに全うしたと、この点に於いて言えると思う。  また、他にも企画部は総務局の一部署として、企画立案業務以外の仕事も幾つか行ったのであるが、どれも思い出に残るものばかりであった。この様に、企画部は今回与えられた分量では到底書き尽くすのが無理な位、様々な企画を練り、行動を起こしたのであった。  その一連の職務の中で、我々が常に心掛けたことは、とにかく新しいことを何かしようということであった。この思いが結果となった例は学校説明会生徒参加企画が実行へと繋がったというものである。学校説明会に生徒が出て、何の制約もない状態で質問を受け付けるということは極めて画期的なことであった。我々は一つ、風穴を開けたのである。  誰かが風穴を開けなければ、何も物事は動かないのである。風穴が必要だと感じた者は行動しなければならない。それは各々が属する社会に対する義務である。企画部は責任を持って、関西学院高等部と学友会に風穴を開ける役割を持つべきである。風穴を開けること、それは企画部の職責である。私はその様に考える。これから企画部を担う方には伝統に捕らわれないチャレンジを果敢に試みてもらいたい。我々は大きな期待を持って、今後の企画部と学友会、そして関西学院高等部の行方を見守っていくつもりである。  最後に副部長の安藤真也君、部員の角野浩史君、大山直樹君、三浦力君、水田裕隆君に、企画部メンバーとして共に歩んでくれたことを深謝する。世界は君達を待っている。
    (1998年度学友会企画部部長 川中 大輔)


    管理部の仕事は、図書館及び食堂の管理、生徒の自主的な啓発活動を主とするものである。今年度は主に前記の図書館及び食堂の管理のみの活動となった。盗難等の啓発活動については部員が少なく、全体的にこじんまりとした活動だったために手をつけられずじまいであった。  このような状況の中で、私は管理部の存在意義に疑問を感じる。仕事量的には非常に少なく、小さい。盗難などの問題にとりくむには、小さすぎるのである。もし、今年度だけの活動内容であれば、他の部署と併合すべきである。総務局の中で一つの部署として独立するほどではないということである。また、盗難などの問題に取り組むのであれば、管理部のもっと具体的なやるべき範囲をきっちりとさだめて活動すべきである。  これらのことは、私の反省であり、今年度私ができなかったことである。是非、次期の学友会役員の方々にお願いしたい。管理部の見直しと、より活発な活動を!  最後になりましたが、今まで私たちの活動を支えてくださった図書館の方々、ありがとうございました。
    (1998年度学友会管理部部長 八木 米史)


    今年度の広報部(学友会通信担当)は、部員3名という少人数ながら、各自が自分の持つ能力を生かして活動したといえます。1年生部員の活躍の場が少なかったのは残念ですが、来年以降は広報部を背負って立って欲しいと思います。  広報部(学友会通信担当)の具体的な活動としては、その名のとおり学友会通信の発行・文化祭の時期に文化祭通信の発行・アッセンブリ一通信の発行などが挙げられます。例年の広報部に比べると活動内容が限られているかもしれませんが、人数のことやその他諸々の要素を考えると、よく頑張ったのではないかと思います。学友会通信が全校生徒に読まれていたとはとても思えませんが、一部の生徒の熱烈な支持に支えられて1年間無事に発行できたことは、僕らの自信にもなりました。この場を借りてお礼を言いたいと思います。発行当初は部長の独断で、学友会通信の名前を「関学エイト」(わかる人にはわかる)にしようとか、学友会通信を年間50号発行しょうとか、そういう野望もありましたが、結局実現することはできませんでした。特に学友会通信の名称が最後まで決まらなかったことは、今さらながら後悔しています。生徒から公募すればよかったと思います。このように反省点も数多くありますが、「継続は力なり」という言葉があるように、発行し続けることに意義があるのです。  一方、文化祭通信の方は発行回数こそ少ないものの、内容としては満足いくものができたと思います。文化祭5日制or3日制の教師会vs生徒会の闘争をまとめたプリントや、各サークルの紹介など、「文化祭」の仕組みを容易に理解してもらえるものに仕上がったと自負しています。今年の文化祭は執行委員長をはじめとしたスタッフの努力もあって、大いに盛り上がったといえますが、広報部も少しは役に立てたと思います。いや、そう思い たいです。  広報部という仕事は、みなさんが想像している以上に大変な仕事です。「どうせプリントつくって刷るだけやんか」と思っておられる方、大勢いらっしゃると思いますが、実際は結構しんどいものです。何故なら広報部は生徒会と全校生徒を「紙面」でつなぐ唯一のパイプであり、責任重大な仕事だからです。原稿をつくり、それを推敲し、パソコンで打ち直して印刷する。この作業は思った以上に大変でした。でも同時に、自分で原稿をつくり上げていく楽しさも感じました。これが広報の醍醐味だと思います。  広報部は目立った活動をしたとはいえませんが、〝縁の下の力持ち″に徹したことは事実です。会長や各部署の代表者の意志を紙面にして皆に伝える、これが広報部の最大であり唯一の役割だと思います。来年以降の広報部役員も、それを十分承知した上で、精一杯頑張って欲しいと思います。
    (1998年度学友会広報部 高嶋 伸弥)


  • 学友会報告1997年度

    はじめに『世界一の学校を目指して』

    1997年度学友会会長 苫野一徳

    笑いたければ笑え。 ののしられても平気だ。 ……そんな思いとともに掲げた学友会の理想『世界一の学校』。 理想は大きければ大きい程良い。  この一年間、学友会は必死になって『学校改革』を行ってきた。 『学校改革』? ……一体それは何だったのか。 ……はっきり言って、『こんなものだ』と三口で説明できるものではない。 そしてそれが、ずっと歯がゆくて仕方のないことだった。 しかし今回、『学友会活動年間カレンダー』として、その活動を何とか文章にまとめさせてもらうことができた。 それを読んで皆さんなりに解釈していただきたい。 人それぞれその解釈の仕方は違うだろう。 誤解される点も多々あると思う。 でも分かってほしい! この活動は、『愛する関西学院を何としても素晴らしい学校にしたい』という、ひたむきな情熱以外の何ものでもなかったのだ。 そして、一年間僕たちを支えてきてくれた高等部のみんなは、きっとそれをよく理解してくれていることだと思う。 大々的にアピールした分、多くの人が協力してくれた。 本当にありがとう。  自由はすばらしい。とても素敵なことだ。 生徒一人一人のあらゆる可能性が花開き、束縛からは決して生まれない個性が芽生える。しかしそれは、同時にとても危険なことでもある。  『みんながするから自分もする』 ……例えば礼拝で寝る。 アッセンブリーでしゃべる。 周りがみんな寝ていれば、罪悪感など感じない。 学校で盗難が起こる。 何度も起こる。 自分も人のものを盗んでもいいような気になってくる。 自由だから何をしてもいい。 こんな風潮ができあがる。  だから自由は難しい。 個人のレベルではなく、周り全てを巻き込んで良くも悪くもなる。 そしてその鍵を握るのは風潮なのだ。 学校の中を渦巻く風潮。 流れ。 雰囲気。 この一年間の活動で、嫌と言うほど思い知らされた。  どんなに優れた人でも、もし一年間暴力団と生活をともにすれば絶対に変わってくるだろう。 アホみたいなたとえだが、人間は常に周囲との関係の中で生きている。 その風潮の 一中で生きている。 だから、『自由だから何をしてもいい』なんていう風潮が学校内を漂っていれば、やがてはその人もその空気に染まっていくかもしれない。 尤も、そんな風潮の中において、強い克己心と自制心とを身に付け、そんじょそこらの学生とは桁違いに優れた人間性を築き上げた生徒も僕は沢山知っている。 そんな頭の下がるような奴も、関学には沢山いる……ということは有名な話。 しかし相対的に見て、やっぱり集団の中をうろついている風潮と言うものが、その集団の質を決定してしまうものだ。  だから風潮を変えてしまえ! ……これが、この一年間やってきた『学校改革』の全てだ。 ふう、何とか説明できた。 とどのつまりは意識改革。 あらゆる能力を兼ね備えた高等部生だ。 自由に甘えることのない強い克己心を養えれば、高等部はもう『世界一』だ! ……そう望み続けた活動だった。 地道に地道に。 こんなもの一気に変わるものではない。 だから僕たちはこの活動を『十カ年計画』と呼び、その種蒔きをするつもりだった。 何にしても、物事の第一歩目というのはとても難しい。  確かに、目に見える形でも色々と変えた。 ボランティア部やエンターテイメント部の発足など。 しかし根本は呼びかけだった。 初めのうちは中々理解されず、批判の声も結構聞こえてきた。 しかしどうだろう、一年間やり終えた今、一体どれだけの人が賛同し、一丸となって学校改善を誓ったことか。 若さ故の世間知らずな志かもしれない。 でも、多くの人が協力してくれたこの活動は、これから段々と成果が表れてくるに違いない。  俺たちには自由が与えられている! 何をするのも勝手だ!しかし物事をきちんとわきま えなければならない。 その上で自分を磨かなければならない。 楽をしようと思えばいくらでもできるのが自由。 それに甘えることなく、向上心をもって生活したい。 そんな風潮の学校であってほしい。 それが完成すれば、関西学院高等部は絶対に『世界一の学校』になれる。 そしてこの理想は決して夢物語りなんかじゃなく、ほんの少し先に見えている現実なのだ。 絶対になれる。 教師と生徒が手を取り合って向上する意志を示せば、十年後の関学は間違いなく、世界中から羨まれる学校になっている。

    12月21日 第一回学友会会議

    学友会執行部役員六人が全て決定してからの初めての会議だった。 会長苫野一徳、副会長保田祐二、書記滝本康平・三瀬靖史、会計西室雅央・鈴木顕。  いきなりの顔合わせであったにも拘らず、この時から、学校改革をしようということが決まっていた。 高等部はこうあるべきだ、こう変わらなければならないという議論が交わされた。 印象的だったのは、「高等部は生徒を駄目にするのにかけては東大レベル」というある役員の言葉。 結局は、『楽をしようと思えばいくらでもできる』……その風潮を何とかしなければならないということだった。

    1月13日 三年生送別アッセンブリー

    第一回会議から、三回に渡って計画を練った。 今思えばまだまだ準備の仕方が把握できていない時期であった。  この送別会は、まず新旧学友会の引き継ぎをしてから、引き続き『関学高等部筋肉番付』を行うという趣旨だった。  当時はまだ発足していなかったが、この後エンターテイメント部の部長に就任してくれた中村亮介君、そしてアメリカンの岸信吾君が司会を行い、一、二、三年生の生徒が、それぞれ数人ずつ舞台の上で腕立て伏せを行い、その回数を競い合った。 結果優勝したのは、本命の毛利さんのアクシデントのため二年F組の矢橋君となり、商品であったデカビタCが二十本贈与された。  この当時はまだ礼拝堂の使い勝手が分からず、色々と課題が残った。 まず会場を暗くする演出だったのに、天窓の閉め方が分からずに雰囲気がでなかった。 インカムの使い方も分からず、スポットや音響との連絡が舞台からとれなかった……等々。 しかしこの失敗のお陰で、その後同じような失敗は二度と繰り返さなかった。 ただ、必要以上に物事を周到に準備してしまうというのが会長の癖にもなってしまった。他の役員はその心配症に振り回されていたようだ……。

    2月10日 ボランティア部発足

    学校改革の会議を重ねるうちに、「高等部生にはモラルがないと言われる。 それならボランティアを今後もっと活動的に行おう」という話になり、学友会直属の機関である総務局の中に、ボランティア部というものを新たに発足させた。 部長に長谷岡君、部員には寺井君、城戸君、松井君、駒月君、若崎君といった有能なメンバーが集まり、最初の年であったにも拘らず、大変な活躍をしてくれた。 今後、この高等部にボランティア活動が定着するのではないかと期待させてくれる活躍ぶりであった。 尚、部長の長谷岡君がボランティアへの思いをつづってくれているので、そちらの原稿も是非読んで頂きたい。

    3月10、11日 スキー旅行先にて学校改革草案(エンターテイメント部発足)

    二年生のスキー旅行。 北海道の留寿都へと飛行機で向かったのは、三月九日のことだった。 そしてホテルにて、夜入時から二時間余り、二日間会議を行った。 一日目の会議に参加したのは学友会執行部六人と、企画部、運動総部長新開、宗教稔部長生田だった。 「じゃあ今日はまず、新入生歓迎アッセンブリーの計画を手っ取り早く練ってから、学校改革の会議をやりたいと思うねんけど……」  会長の苫野が、留寿都リゾートホテルの、暖房が少し効きすぎとも思える会議室で会議を開始した。  しばらく、それぞれが頭を振り絞って、歓迎アッセンブリーでやることを考えた。 「あんな、今年はみんなに学校改革をするっていうことをアピールしたいねん。だからそういう関係の歓迎会がいいなあ」  苫野は言った。 「ほなモラル劇とかはどない?」  そう言ったのは、企画部副部長の鷲尾だった。 「何かモラルを訴えかけるような劇すんねん」  鷲尾は、大まじめな顔をして言った。 「でもそれは無理やろ。誰がやんねん」  企画部部長の木下が言った。 「いや、でもおもろいかも知れへんで」  会計の両室はそう言った。 「せやな、モラル劇なあ」  いつのまにか本当にモラル劇をやるという方向で話が進み始めていた。 「でも誰がやるん?」  会計鈴木と書記滝本が顔を見合わせながら鷲尾に言った。 「うーん、そうやなあ」  少し話が煮詰まった。 会議室はかなり高級そうな部屋で、予約は二時間しかしていなかったためあまり長居はできない。 「中村とかは……?」  その時苫野が言った。 「ああそうやそうや、あと梅田とか……」  西室が統いた。 「あと三井?」  鈴木は常に疑問形で投げかけてくる。 「おうおう、ええやん」  鷲尾はうなずいた。 「じゃあもうそういうの学友会の組織の中に作ってまえや。何て言うん?エンターテイメント部とかそんな名前つけてやあ」  木下と鷲尾が、そんなことを言った。 「わあ、ええなあ。おっしゃそれ作ろう。なあ保田」  苫野が言った。 「おうおう、ええやん」  この頃の保田はクールだった。副会長である。 「でも俺らで勝手に組織変えてええんか?」  木下が言った。 「まあいいと思うで。ボランティア部とかも勝手に作ったし……まあ勝手って言ったら言葉が悪いけど、俺たちの学友会だから、組織はいいと思ったら作っていいはずやで」  苫野は言った。この頃はまだ学友会のあるべき姿というものが良く分かっていなかったため、色々と戸惑っていた時期でもあったのだ。 エンターテイメント部は、こういう成りゆきでできた部であった。 我々学友会は、『世界一の学校』という目標を掲げる前、まず『身近な学友会』を掲げていた。 エンターテイメント部の使命とは、まさにそこにあった。 毎月アッセンブリーでコントを行い、学友会の目指すところを面白おかしく分かってもらうというものなのだ。 そして、部長の中村君を始め、梅田君、三井君の三人は、高等部の中でも笑いのセンスは随一と言われ、この後、数多くの公演をこなしてくれるこ とになった。 すばらしいチームワークとカリスマ性を待った部であった。 「じゃあ歓迎会はモラル劇……チックなことをするということで、明日中村を呼んでそのことは練ろう。じやあ次に学校改革についてやねんけど……」  苫野は言った。 「とりあえずな、みんな何で改革をやるかっていうことは分かってると思うねんけど、みんながそれぞれ思ってる…高等部はこういうところを直さんとあかん……っていうところを言ってほしいねん」  すると次々に声が上がった。 「っちゅうかな、この学校モラルなさすぎ」 「盗難多いとかって……ほんま信じられへんわ」 「何に関しても無関心やったりするやろ」 「おう、やる気ないよな」  みんな好き好きに言い合った。 とても悲しいことだ。 みんな高等部の中で生活しながら、少なからずやりきれなさを感じていたのだ。 「結局はな、やっぱり良く言われることやけど自由に甘えてる態度やと思うわ」  保田が言った。 「うん、そうやな」  苫野は保田の方を振り向いて言った。 「自由だから何をしてもいいっていう甘えがある」  保田はもうー度言った。 「先生らも絶対楽してるって」  そんな声も上がった。  この後、激しい討論が展開した。 やはり高等部の抱えている『自由に伴う様々な問題』……これを何とかすることが、一番の課題であった。 「俺さあ、外部から来たけど、やっぱり高等部は凄い奴らが沢山いると思っててんな。でもいぎ入ってみると、なんじゃこりゃ……っていうのが多かったわ。万引きとか煙草とかなあ。いくら自由でも、やっていいことと悪いことがあると思うわ」  そう言ったのは運総の新開だった。 「うん。そうやな。俺思うんやけどさ。なあ保田って高等部好き?」  苫野が言った。 「いやあ……やっぱ嫌いかな」 「じゃあ三瀬は?」 「え?俺?そうやなあ……」  ずっとノートを取っていた書記の三瀬は少し考えて 「嫌いかな……」  と言った。 「そうやろ?あのさあ、俺が思うにな、中学部出身者は関学が好きだから何とかしたいと思って、外部受験で入ってきた生徒は、関学が嫌いやから何とかしたいと思うんやと思うねん」 「それはそうかも知れんな」  宗総の生田が言った。  こんな感じで会議は進んだ。 まず、みんなで改革をしようという意志を固める会議だった。 「で、そのための具体案を考えなあかんな。俺まず言っておきたいことがあんねんけどな。生田とも少し相談しててんけど、今年は礼拝改革をしたいねん」  会長の苫野は、司会のくせに一番良くしゃべる。 「俺がずっと思ってきたんはな、まあ合ってるかは分からんけど、礼拝でみんな寝るやん。これがかなり集団のレベルの低下を招いてると思うねん。みんなが寝るから俺も寝ていい……そういう考えが絶対生まれるやろ?だからゴスペルコンサートでも寝るし、進路演会でも寝るし、果ては芸術鑑賞会の『美女と野獣』ですら寝る……。みんながするから俺もしていいっていう風潮が、高等部を悪くしてると思う」 「そういうことやね」 生田はつぶやくように言った。 「俺はな……」 苫野は続けた。 「高等部生一人一人の能力は凄いと思うねん。でも集団になるとレベルが低下する……。これは礼拝が少なからず原因になってると思う」 「それでどうしたいん?」  保田が言った。 「まあ寝てる奴を叩いて起こすとかしても意味がないからな……とりあえず寝ないようにする。そのためには今のようなマンネリ化した礼拝はあかんと思う。生徒礼拝をしたり、音楽礼拝をしたり……まあそういう話は宗教部とも一緒にしていこうと思ってんねんけどな。それから聖書、讃美歌を、自分の物を礼拝堂に持っていくという運動もやりたいな。今のような参加意識のない礼拝はよくないと思うから……そうすることで少しでも参加意識を向上させたい」  この後も、苫野は延々としゃべり続けた。  そんなこんなで、礼拝改革をすることが決定した。 主催は宗教部、礼拝委口月会。 そして学友会は後援という形で。  学友会通信を毎月配布するということが決まったのもこの日であった。 学友会に興味を持ってもらうため、学友会のやっていることを知ってもらおうという主旨だった。 他にも意識調査を行って高等部生の現状を把握すること、アンケートを頻繁に行うことも決まった。  とりあえず、この日の会議ではこのような話がなされた。 会議が長引き、石森先生に注意されたことが懐かしい。 次の日は中村も呼んで同じような話をもっと掘り下げて行った。 それぞれの多種多様な意見が交わされ、とても白熱した会議だった。  このようにして、改革の基本方針をこの日皆で確認し合った。 この日から、地獄の会議ヅケが始まったのである。 学校改革を順調に行うための周到な準備。 そのために、夜遅くまで学校に残る日々が続くようになった。

    3月24、25日 千刈一泊研修会

    一年間の方針、流れを計画するため、学友会執行部の役員と、総務局からは広報部部長の野木、そして各紙部長、各委員長が参加した。 付き添いの先生は、学友会顧問枝川先生と、クラス委員会顧問福嶋先生だった。 会長苫野は、この日の準備をするために試行錯誤を繰り返し、会議の内容を前日までに考え上げた。 学友会活動の出発点とも言えるこの千刈研修は、とにかく会議ヅケで、目茶苦茶疲れるものなのである。  到着したのは午後一時。早速一時辛から、会議室にこもって約四時間の会議が始まった。 「前半の会議は、各総務局の仕事役割と、各委員会、各総部の仕事役割、あとアッセンブリーの持ち方について話し合います」  司会苫野は言った。 「まず総務局やけど……これは学友会直属の機関として、改革にも大きく貢献してほしいと思う……」  こんな感じで会議は始まり、それぞれの役割は決まった。 整理しよう。 《ボランティア部》全校生にボランティアの情報を伝えて募集し、その先頭に立ってボランティア活動を行う。 《広報部》学友会通信(のちにKG瓦版と命名)を毎月作成する。 掲示板に常に情報を掲載しておく。 《企画部》改革案の企画、その他行事の企画を、執行部と共に行う。 《運営部》行事の運営。 特に、エンターテイメント部がコントを行うとき、スポットや照明、音響などを担当する。 《管理部》食堂、保健室、図書館などの状況を毎月聞きに行き、全校生に報告する。 《エンターテイメント部》アッセンブリーでコントを行い、全校生に関心を持ってもらう。  議論が何時間も交わされ、各委員会、各紙部の役割も決まった。 とにかく今年の学友会とそれを支える面々の役割は、それぞれのパートがそれぞれの力量を活かして学校改革に貢献しようというものであった。 例えば礼拝委員会は礼拝改革を担い、美化委員会は割箸リサイクルによって生徒のモラルを高める。 クラス委員会はコミティーを通して改革に関する 意識向上を呼びかけ、総務局はそれぞれのパートで、自らの行動をもって周りに影響を与えていく。 ……それを理想にした。 いわば、執行部が大きな力を持ちながらも、地方分権体制で改革を行おうという趣旨だったのである。  六時半から後半の会議。 三時間余り学友会総会の話に費やした。 ここで議論は最高潮を迎え、会議室の使用時間が終わりに近づくと、それじゃあキャビンに戻ってそこで話し合おうということになり、宿泊するキャビンに全員で向かった。  ここから延々と数時間。 殆ど徹夜状態で、学校のあり方、教師のあり方、自由のあり方……などが、先生方も交えて討論された。 詳しく書きたいが、紙面の都合上涙を飲んで割愛する。 しかし心の底から感じた。 十人十色なんてもんじゃない。 それぞれの考え方は全く違うものなのだ。 でも理想が同じならそれでいい。 すばらしい学校。生徒と教師がお互いに高め合っていけるような学校。 そう、そんな『世界一の学校』。

  • 学友会報告1996年度

    はじめに『世界一の学校を目指して』

    笑いたければ笑え。 ののしられても平気だ。 ……そんな思いとともに掲げた学友会の理想『世界一の学校』。 理想は大きければ大きい程良い。  この一年間、学友会は必死になって『学校改革』を行ってきた。 『学校改革』? ……一体それは何だったのか。 ……はっきり言って、『こんなものだ』と三口で説明できるものではない。 そしてそれが、ずっと歯がゆくて仕方のないことだった。 しかし今回、『学友会活動年間カレンダー』として、その活動を何とか文章にまとめさせてもらうことができた。 それを読んで皆さんなりに解釈していただきたい。 人それぞれその解釈の仕方は違うだろう。 誤解される点も多々あると思う。 でも分かってほしい! この活動は、『愛する関西学院を何としても素晴らしい学校にしたい』という、ひたむきな情熱以外の何ものでもなかったのだ。 そして、一年間僕たちを支えてきてくれた高等部のみんなは、きっとそれをよく理解してくれていることだと思う。 大々的にアピールした分、多くの人が協力してくれた。 本当にありがとう。  自由はすばらしい。とても素敵なことだ。 生徒一人一人のあらゆる可能性が花開き、束縛からは決して生まれない個性が芽生える。しかしそれは、同時にとても危険なことでもある。  『みんながするから自分もする』 ……例えば礼拝で寝る。 アッセンブリーでしゃべる。 周りがみんな寝ていれば、罪悪感など感じない。 学校で盗難が起こる。 何度も起こる。 自分も人のものを盗んでもいいような気になってくる。 自由だから何をしてもいい。 こんな風潮ができあがる。  だから自由は難しい。 個人のレベルではなく、周り全てを巻き込んで良くも悪くもなる。 そしてその鍵を握るのは風潮なのだ。 学校の中を渦巻く風潮。 流れ。 雰囲気。 この一年間の活動で、嫌と言うほど思い知らされた。  どんなに優れた人でも、もし一年間暴力団と生活をともにすれば絶対に変わってくるだろう。 アホみたいなたとえだが、人間は常に周囲との関係の中で生きている。 その風潮の 一中で生きている。 だから、『自由だから何をしてもいい』なんていう風潮が学校内を漂っていれば、やがてはその人もその空気に染まっていくかもしれない。 尤も、そんな風潮の中において、強い克己心と自制心とを身に付け、そんじょそこらの学生とは桁違いに優れた人間性を築き上げた生徒も僕は沢山知っている。 そんな頭の下がるような奴も、関学には沢山いる……ということは有名な話。 しかし相対的に見て、やっぱり集団の中をうろついている風潮と言うものが、その集団の質を決定してしまうものだ。  だから風潮を変えてしまえ! ……これが、この一年間やってきた『学校改革』の全てだ。 ふう、何とか説明できた。 とどのつまりは意識改革。 あらゆる能力を兼ね備えた高等部生だ。 自由に甘えることのない強い克己心を養えれば、高等部はもう『世界一』だ! ……そう望み続けた活動だった。 地道に地道に。 こんなもの一気に変わるものではない。 だから僕たちはこの活動を『十カ年計画』と呼び、その種蒔きをするつもりだった。 何にしても、物事の第一歩目というのはとても難しい。  確かに、目に見える形でも色々と変えた。 ボランティア部やエンターテイメント部の発足など。 しかし根本は呼びかけだった。 初めのうちは中々理解されず、批判の声も結構聞こえてきた。 しかしどうだろう、一年間やり終えた今、一体どれだけの人が賛同し、一丸となって学校改善を誓ったことか。 若さ故の世間知らずな志かもしれない。 でも、多くの人が協力してくれたこの活動は、これから段々と成果が表れてくるに違いない。  俺たちには自由が与えられている! 何をするのも勝手だ!しかし物事をきちんとわきま えなければならない。 その上で自分を磨かなければならない。 楽をしようと思えばいくらでもできるのが自由。 それに甘えることなく、向上心をもって生活したい。 そんな風潮の学校であってほしい。 それが完成すれば、関西学院高等部は絶対に『世界一の学校』になれる。 そしてこの理想は決して夢物語りなんかじゃなく、ほんの少し先に見えている現実なのだ。 絶対になれる。 教師と生徒が手を取り合って向上する意志を示せば、十年後の関学は間違いなく、世界中から羨まれる学校になっている。
    (1997年度学友会会長 苫野一徳)


  • 学友会報告1995年度

    先進的発展途上校・関学

    真の自由とは何か。自由が謳歌されているこの関学に、果たして真の自由は存在するのだろうか。よく先生方の口からでてくる言葉、「責任の伴う自由」のなかに本当の自由はあるのだろうか。これに対して私は、あくまで私的見地からの意見として「否」という答えを持っている。責任とは、その行動に伴うものではなく、その自由の結果に対してのみ伴うものである。つまり、「拘束された自由は自由にあらず」。これが私の考えなのである。  では、真の自由はいかにして存在しうるのか。それはただ一つ、生徒の意識によってのみである。責任とは同質の様で、全く異質な「自覚」によって形成された「高等部生九百人の意識」が真の自由を導くのである。生徒総会での私の言葉を覚えている人は少ないと思うが、「自分達で勝ち取った権利を、ルールに乗っ取った上で行使できない人間なんていらない」、この過激とも思える発言が、私からの強烈な呼びかけだったのである。  確かに、関学は他の学校に比べて、かなり自由な校風であると言える。しかし、我々の目指すものはまだ遠く、うっすらとしか見えていない。ただ確実なのは、この関学という学校がそれに最も近い位置にあり、それでいてどこの学校よりも大きな可能性を秘めているということである。これは、「どの様にすれば」などというものではなく、その学校の校風からくるものである。おそらく、これまでの先輩方によって築きあげられた校風が、そういった関学を作っているのであろう。  それでは、この「関学のイメージ」として定着してしまっている校風は、一体我々にどの様な影響を与えているのだろうか。良くも悪くも、高等部生九百人に大きな影響を与えているのは事実である。ここで私は、「良くも悪くも」という表現を用いたが、これこそがその影響の全容なのである。そして現在の関学の性質を最も端的に表す言葉なのである。  何度も繰り返すようだが、関学ほど可能性を秘めた学校は他にはないだろう。プラス・マイナス両面において、限りなく進み続ける性質を持っているのである。まさに、生徒の力によって学校が大きく動かされているのだ。つまり、我々の頑張り様によっては、学校はいくらでも素晴らしいものになっていく。が、生徒がだらければだらける程、学校は堕落してしてしまう。そんな学校が今の関学なのである。  それでは、この関学の秘めた可能性に挑戦しよう。もちろんプラス面においてであるが…。そう考え、私は関学の会長に立候補したのである。私が求めた関学は、文武両道はもちろん、生徒の自主性という名の意識に基づいた自由な学校なのである。そして、カッコいい学校。この「カッコいい」という形容詞には私独特の解釈、定義があり、詳しくはこのマスタリーに同じく記載されている「魂の叫び」に目を通してもらいたい。とにかく、我々学友会が一年の仕事を終えた今、ここにはっきりと断言してしまおう。関学は、どこよりもカツコいい学枚である。  さて、我々,95年度が歩んだこの一年間は、これもまた同じく記載されている「魂の叫び」に記した通りである。この一年間、私は本当に多くの仲間に助けられた。これ程あらゆる分野の仲間に助けられた人間は、そうはいないだろう。もともとは自分の力不足からくるものであると知りながらも、私はこんなに素晴らしい仲間に支えられたこと、そしてこれらの素晴らしい仲間をこれ以上なく誇りに思っている。  信念を持って突き進んだこの一年間、その先に我々の求めた関学はあったのだ。決して虚栄などに彩られた一年間ではない。新しい関学文化の第一歩を今、踏み出したのだ。  関西学院高等部は、現時点では最高の学校である。しかし、関学が秘めた可能性は決してこんな程度ではない。関学はまだまだ、どこまでも発展し続ける学校なのである。今後引き継がれていくべきこの関学文化、その瞬間瞬間に、その時点で最高の文化であることを、私は今から確信している。  関学文化とは、まさに関学生の一挙一動そのものなのである。
    (1995年度学友会会長 山本 毅)


    学友会副会長業績報告

    私が副会長に立候補した動機は次のような動機からであった。  第一は意識改革を行いたいと思ったことだった。その意識とは学校生活に対するものである。アッセンブリー、ホームルーム、その他の行事への取り組みの意識があまりにも低いように思われたからである。そして、このことは行事の面白さや学友会の指導力の問題ではなくもっと根本的な問題、つまり「自由」というもののあり方と関わりがあるのではないかと思った。確かに何の影響力も受けずに気のむくままに行動できるのは主体的で望ましいことだと思うのだが、それでは一体高等部生であることの意味を思わずにはいられなかったのだ。つまり、高等部生であるという自覚を一人一人はっきり持てることができればよいと思った。  第二の点は高等部生約九百人の一人一人の「個」を浮き彫りにすることだった。クラブをはじめとする大きな集団の影に隠れがちな個人という存在が何らかの影響力を持てればよいと思っていた。  このような大それた理想を掲げてのぞんだのであるが、今振り返ってみると単なる思い込みにすぎなかったのではないかと思う。そのことが明確に現れたのは震災直後の臨時総会ではないかと思う。Mastery for Serviceの精神と強固な使命感から一致団結したのはすばらしかった。また総会における週報の是非を巡る大論争、関々戦や文化祭の成功も私たち全員が一つとなって精一杯に取り組んだことに他ならない。  第二の点においては私の意図を明確に表せたのではないかと思う。『魂の叫び』は予てからの私の念願であった。初めは学校生括についての意見を細々ながらも連載できればと思っていたのだが、思いのほか反響が大きく驚き結局十二号まで発行することができた。ここにおいては個人の意見の発表の場とともにそれに対して応答する姿勢が見られたことをとてもうれしく思った。  これらのことから私は一つのことを思った。それは、学校というものは変えるものではなく変わっていくものであるということである。実際今年度の学友会はこれまでの学校の雰囲気を一変しようと努力してきた。しかし、いくら頑張ったところで結局変えるのは生徒一人一人である。だが私たち学友会はそれらの変革に対してある方向づけをしたことは確かである。副会長職を終えた今、その方向性は正しいものであったと信じている。
    (1995年度学友会副会長 井上 武史)


    学友会会計という役職について一年がたった。この一年間で僕は人間的に大きく成長したと思う。  学友会活動に参加しょうと心に決めたのは部活の先輩でもあった前年度会長の大植さん、そして前年度文化祭でのスタッフ活動によって心を大きく動かされたからだ。  今年度の学友会は震災の影響でスタートが遅れ、さらに特別予算、印刷機購入などによって予算を去年と大幅に変更した。  当初このままでは今年の学友会はだめだろうと思ったが、全役員全生徒がその力をそれぞれの面で集結させ、震災によって生じた穴を埋めることができた。この驚異的なパワー、それこそが関西学院高等部の全てであると僕は確信している。  僕らの学友会活動を享えて下さった諸先生方、役貞の皆様、そして全校生徒に僕は心から御礼を言いたいと思う。 〝一年間本当にありがとうございました。″
    (1995年度学友会会計 書岡 良)


    書記をするようにと頼まれた時、そんなにしんどそうに思えなかったので容易に「いいよ。」と返事してしまった。しかし、この気持ちは新入生歓迎会の準備をし始めると共にまちがいだったことに気付いた。それからは、『なんで仕事をせなあかんのや。』という気持ちと『頑張って行事を成功させよう。』という気持ちが交錯しながら今までやってきた。そして、この仕事を終えた今、しんどかったという気持ちが正直なところだ。しかし、学友会役員をやらしてもらって色々なことを学べたと思う。それは、人を指導することの難しさ、物事を企画し実行することの難しさ、また、楽しさなどである。  今年は地震があったりと僕にとっては色々なことがあった。その中でも学友会役員として一年間過ごせた事が一番の思い出であり、一番の収穫だったと思う。一年間、協力して頂いた先生方や生徒のみなさん本当にありがとうございました。
    (1995年度学友会書記 高橋 倍哉)


    書記になって一年、色々な事を経験した。書記の基本的な仕事は、会議の議事録を取ったり、黒板に必要事項を書くといったものだ。後は、KGレビューの学友会のページの編集といった所だ。しかし、これはあくまでも基本である。行事が近づけば、とにかくなんでもするという事になる。そのため、書記の仕事はとてもしんどかったが、その分いい経験をたくさんきせてもらった。来年やる人または今後書記をになっていく人は、たぶん去年の書記や学友会と比較されるだろう。私も去年の人とかなり比較された。でも、肝心なのは、自分がどうしたいか、どうしたらこの学校をよくし、自分たちの学年はこう考えているかを出せるかにかかっていると思う。だから君達の好きなようにすればいいし、去年がどうこういうのは事務的な面だけを見ればいい。とにかく自分の学年のカラーを出せればそれでいいと思う。今年、仕事をするにあたって、多くの人々に助けられた。三F木村君、三F中川君、三C近田君、そして書記の高橋君には感謝するしかない。いろんな成功や失敗があったが、すべてみんないい経験だった。私はこの学年の学友会の一月であった事を誇りに思います。 一年間指導して下さった枝川先生・松浦先生・芝川先生・丹羽先生、ありがとうございました。
    (1995年度学友会書記 三木 靖裕)


    僕がやった最初の仕事は、二十校ほどの生徒会に、平成七年度の役月が決定したという手紙をつくり、送ったことである。灘・六甲などという、そうそうたる学校に送るため、アホみたいな文章では関学がバカにされてしまうと思い、かなり苦悩してつくった。  そして、力尽きた。最初で最後だった。そらからは、クラブが大切な時期をむかえたこともあり、三木君、高橋君にほとんどの仕事をしてもらった。  しかしあの手紙は力作だった。僕が学友会の役月だったことを証明する唯一の代物。ギザジュウよりも貴重だろう。見たことある人はラッキし持ってる人なら尚ラッキー。  最後に部月がいたことを思い出したので紹介しておこう。3-A伊藤君…。あと三人ほどいたのだが思い出せない。唯一の仕事を僕が一人でやってしまったので、彼らは何一つやっていない。  ※ギザジュウとは周りがギザギザの十円玉。
    (1995年度学友会事務部 小沢 健二)


    企画部とは学友会役員会直属の企画立案機関で、同時に学友会本部並びに各議決機関の活動を支えるために去年設立された戦闘集団である。  私を中心に走り屋近田、裏声安西、来年の副生徒会長森(彼でさえ部下にすぎなかったのである!!)たちが根の深い活動をくりひろげたのは記憶に新しいことである。  新入生歓迎会においては牛乳飲みレースなど大活躍したものの、その後団月の安西が渡米し、攻撃力が下がりだしたのも否めない。  どれほどの功績を残したかはここではあえて触れることを避けさせて頂くが、我々は確かに存在していたのだ。来年この企画部を担当する方々にはぜひ、平和と愛との見事な調和がみられる理想郷を追ってもらいたい限りである。何も僕たちにとらわれる必要はない。君たちのテンポでリズムで自由にやればいいのさ。けっこうすごいものができると思うよ。
    (1995年度学友会企画部 加来 洋 )


    広報部の仕事はポスターやパンフレットなどを作ったりする割と気楽なものです。広報部長になるのが決まると戸惑いましたが、やってみれば、それなりにやりがいのある仕事でした。スタッフのみんなと力を合わせてやっていくのはとても楽しかったです。僕のために足並のそろわないときもありましたが、そんなときはスタッフの人が助けてくれました。この場を借りてありがとうを言いたいと思います。文化祭のときは僕の描いたポスターを見てくれた人がたくさんいると思います。あれは実は未完成だったのです。僕の将来の夢は画家になることなので、あんなものは僕の中ではうんこです。我々、広報部の反省すべき点は特に思いあたりません。感想はこれだけやったら大学に行けるのは当然として学部も選べるっくれーの特典はあんだろーな?ということです。
    (1995年度学友会広報部 安田 馨)


     学友会を組織する際に、会長の山本君から運営部部長という自分にとって大役を依頼されました。しかし自分自身、野球部に所属し野球に全力を注いでいたため、春夏はほとんど運営部としての仕事を全うすることができませんでした。  運営部という役職は、これといった特定の仕事がなく、学友会に関わる行事のサポートをすることが役目でした。そこで自分が一つ残念に思ったのは、特定の仕事がない分、もっと積極的に意見を出して学枚行事を盛り上げるべきだったということです。  ここで得た貴重な体験は将来、必ず役立つと思っています。期待に添うことができたかはわかりませんが、仕事をした時は言葉に表せない充実感でいっぱいでした。ご指導していただいた先生方、会長には本当に感謝しています。
    (1995年度学友会運営部 尾家 彰)


  • 学友会報告1994年度

    長 い 夢  一九九五年一月十七日、午前五時四十六分、僕は長い長い夢から覚めた。あたりを見回してみれば、それは僕が今まで体験したことのない世界だった。飛びかう悲鳴、叫び声、鳴り響くサイレン。はじめ僕はどうしてこの世界にまよいこんだんだろう。はやくもとに戻らなくてはと思った。しかし時間が立つにつれ現実という、厳しくつらい状況を受けとめなければならなかった。そして又生きなければならなかった。  体力のある者は救援活動をした。僕もその一人だった。救援活動の為いろいろな所をまわった。しかしもうそこには慣れ親しんだ風景はなかった。がれきの中にはまだたくさんの人が埋まっていた。知人とわかっていても助けることができなかった……。  夜、電気がつかないのでろうそくをつけ、そのまわりで皆で寝た。僕はろうそく替えの当番だった。ろうそくの炎をみつめながら長い長い夢のことを思い出した。  ――僕は関西学院中学部で学び、そして高等部に上がり高校3年生の時は生徒会長になっているという夢だった。  僕が会長としての一年が始まろうとしていた。僕が会長になったのは、学校を変えたいとか言うような大それた気持ちはなかった。きっと何かを自分自身の中で呼びさましたかったからだろう。でも何かわからない。僕はその何かを見つけるためにすべてに対し全力でぶつかった。その中には、友人とのケンカ、先生との討論、親との争い、心の中の葛藤、感動、悲しみ、様々なことがあった。しかしどれをとって見ても楽しいと呼べる日は一日たりとも感じたことがなかった。でも自分の中で何かが目覚めつつあるような気がしていた。でもまだわからない。どうすればみつけられるのだろう……そんな事を考えているうちに一年が経った。最後の日の引き継ぎ式の時に自分は会長になる前に出合った言葉を思い出していた。  「理想に向かって日々努力しなければならない。理想は現実を変える力をもたなければ理想とは呼べない。」僕ははじめこの意味がわからなかった。しかし自分のいだいていた理想に向かってただひたすら走った。走っても走ってもその時はまだ追いつくことはなかった。――  ろうそくの火が消えそうだったので新しいものにかえた。また明るくなった。その時僕はこの数日間の自分の行動を考えた。そこには、人を肋けようとかいう気持ちの前に体が勝手にうごいている自分があった。  「そうかこれだったのか。」僕ははじめて自分の中で一月十七日を境にある何かが目覚め、そして光り輝きつつあるとその時実感したと同時に、やっと理想にたどりつけたと思った。なぜなら、どういう形であったにしろ自分の目の前で大きく現実がかわったからだ。僕が一年間頑張って事は無駄ではなかった~~~~。  目が覚めた。今日は水くみだ。  夢から覚めた今でも僕の耳のおくでこだまする言葉は〝マスタリー・フォー・サービス″だった。 (追記)この度、阪神大震災に被災された方々に慎んでお見舞い申し上げます。  僕は神戸市東灘区に住んでいましたので被災の直後はすごい砂けむりと悲鳴でたいへんおどろきました。又、阪神高速が落ちた所まで7分のキョリの所に自宅がありましたから 3分後ぐらいにもう一度ドスーンという音がしたのを今でも覚えています。この地震を期 に僕の価値観も大きく変わりました。人の命の大切さ、自然の驚異、日頃のあまかった考、え、生き方、この数日間で様々なことを体験しました。  しかし、このような状況であるからこそ強く生きていかなければならないと実感しました。ここにも書かせていただいたように、心の中のろうそくの火を絶やすことなく、これからもより高い理想に向かって頑張っていこうと思っています。  最後になりましたが、一年間お世話になった部長・副部長先生、並びに先生方、食堂の方々、図書の方々、事務の方々、労務の方々、そして関西学院高等部のみんなすばらしい3年間をどうもありがとうございました。
    (1994年度学友会会長 大植 洋弘)


    副会長を振り返って  副会長の公約を言ってからはや一年が過ぎました。振り返ってみると自分なりに頑張れた事、努力が足りなかった事などいろいろありました。副会長は、楽であると言うイメージが強いですが、そんな事はないと言う事がよくわかりました。  やはり、一番辛かったのは、学友会活動とクラブ活動との両立の難しさでした。クラブは休めないし、かといって学友会の集まりに出られないと進行状態が把握できません。何とか出られる集まりは出て、出られない集まりは他の役員に内容を聞いてこなしました。その中で、「さぼっている」と言われた言葉はかなり精神的なものがありました。確かに集まりに出られないと意見を述べる機会がないので、他のメンバーにとても迷惑をかけたと思います。クラブ引退後は、集まりにも顔を出すことができ、文化祭、エイズのためのチャリティーバザーなどの活動にも協力できました。  文化祭では、新しい金券制導入や文化祭日程などにより早い時期から集まって、意見の交換を夜遅くまでやった事はとても印象に残っています。文化祭前日に学校に泊まり込んでまで作業に専念した事も忘れられません。エイズのためのチャリティーバザーでは、 細かな作業をし、当日はバザーの販売を朝から夕方まで昼御飯を食べる事も忘れて行いました。文化祭、エイズのためのチャリティーバザーなどは、みんなの協力により成功をおさめたと感じます。他のメンバーが、もりたててくれたおかげでこんな立派な活動をする事ができたと思います。  僕が、主に中心となって行ったのはサークル委員会です。生徒の皆さんは、サークルというのになじみがなく、何度かアピールはしましたがまだサークルを知らないという人も中にはいると思います。クラブの小さいものであるサークルは、今年だけで軽音楽サークル、総合情報文化サークルが正式に認められました。サークル新聞を作ったりともう少し幅広い形でサークルを取り上げればよかったという後悔もあります。ぜひ次期サークル委員の人には、サークル活動を学校中に浸透させていってほしいと思います。  また、新入生歓迎会、総会、文化祭開閉会式などの司会をすることも多かったです。司会と言う大役をこなしてこれた事や司会の楽しさなどを身をもって感じられた事は、とてもいい経験になりました。  副会長らしい事は、充分にできたとは思いませんが、自分なりに努力して頑張ってこれたと思います。学年で一人しか味わう事のできない副会長の仕事ができたことは、とてもよかったです。この素晴らしい体験を一生忘れずに後の人生に役立てていきたいと思います。  学友会の皆さん、全校生徒の皆さん一年間有難うございました。学友会にたずきわって下さった諸先生方、本当に有難うございました。  井上君―'95の副会長として会長の山本君をサポートして頑張って下さい。心から応援しています。
    (1994年度学友会副会長 沼 友和)


    僕は、今でも思うのだが自分みたいなのが学友会役員になるとは思ってもいなかった。会長に、「書記やってくれ」と言われた時も、クラス委員すらやったことのない自分にそんなたいそうな役できるわけないやんけ、と思っていました。しかし、自分も少しはそういう仕事をやってみるのもいいかもしれないなと思ったし、大学推薦に有利だという事もあってか、書記をひきうけることにしました。  書記の仕事というのは、読んで字のごとく主に会議の際のノートを取ることです。そのほかの仕事として、僕はステージパートの責任者という仕事をしました。この仕事が僕にとって一番大きかった仕事です。バンドや音楽関係の事は全くの無知で、何をやっていいのかわからず、先生方や役員には大変迷惑をかけました。しかし、途中から藤村君が加わってくれて、どうにか成功をおさめることができました。  この一年間、学友会役員という大きな仕事をしてきて、色々な経験ができたと思います。確かにしんどかったけど、仕事をした時の充実感はとてもよいものでした。書記という仕事をした事は、とても貴重な経験になると思います。一年間、協力して頂いた先生方や役員の人達には心から感謝したいと思います。  みなさん、おつかれさまでした。
    (1994年度学友会書記 佐々木 真人)


    学友会書記という仕事を与えられてそろそろ一年がたとうとしている。  はっきりいってこの一年はしんどかった。  はじめの頃は、役員会の議事録を取っていたが、文化祭前になると、書記としての仕事がなくなった。そのかわりに、他の仕事が色々舞い込んできた。  書記というのは、名前ばかりで何の行事でもフルに仕事をする「なんでも屋」なのである。  はじめ学友会会長から書記をやってくれへんか、といわれた時は、正直いって部活もやってるし無理やろな、と思っていた。けど一年たった今、かなりしんどかったけど、多くのものを学んだと思う。 一年間指導して下さった枝川先生、松浦先生、芝川先生どうもありがとうございました。大変御迷惑をかけました。
    (1994年度学友会書記 久下 竜一)


    知る人ぞ知る事だが、僕はかなりいいかげんな人間だ。そんな僕が学友会の会計を担当したのは、青空に浮かぶ蜘昧のように無気味なことである。文化祭で金券制を導入するなんてもってのほかだが、今年の文化祭執行委貞や学友会本部役員の勢いに乗せられつつ金券制を前向きに考えだした。  しかし、実際に新しい事をするというのは想像を12回超えるくらい面倒なことで、本当に多くの人達に協力してもらった。特にT君、立派な原案をありがとう。そして全校生徒の協力もカツコ良かった。高等部生がたまに見せる団結力が好きだ。先生方にもずい分お世話になった。  最後に一つ言わせてもらいたい。 「遊び人でもいい。ポリシーを持て」
    (1994年度学友会会計 谷川 夏樹)


    みなさんはこんな機関が学友会にあったことはあまり知らなかったでしょう。このシンク・タンクは今年新しい機関としてできたものでした。部長・書記・書記補と一年~二年 まで各3名ずつの部月によって構成され、主に毎週金曜日の昼休みにミーティングを行い ました。シンク・タンクは学友会役員会直属の企画立案機関で、それと同時に学友会本部並びに各議決機関の活動を支える独立した諮問機関としてスタートしました。部長がシンク・タンクを代表し学友会の各議決機関の会議へ出席し、そこで取り上げられた諸問題のうち、特に話し合う必要の有るもの、もしくは特に要請のあったものに限り定期的に行われるシンク・タンクミーティングにおいて部員に答申案を考えるように伝達する。そして討議しそれを役員会へ提出する。つまり主に慣例行事の運営方法や内容などをあらゆる角度から再検討したり、新行事の企画などを考え役月会にその討議した結果を提出する所でした。   しかし残念ながら今年が初めてということもありうまくこの機関は活躍することができませんでした。それは各機関からシンク・タンクに対して答申を求めるということがなく、行事の企画・運営などを時間に余裕がないためすべて学友会が進めていったためでした。  エイズのためのチャリティーバザーの原案として新企画の実現は見られましたが、新企画を考えるのは難しくかなえられないものでした。シンク・タンクは役員会直属の機関でしたが役員会の出席は部長と書記のみであったため、部員と学友会役員とのコンタクトがうまくとれず意見のくい違いなどがありました。各学年・生徒の意見をくみあげようとするすばらしい考えからできた新機関でしたが、うまく機能できなかったのは残念でした。
    (1994年度学友会シンクタンク 飯森 良光)


    「幹事会」というのは、前年まであった「食堂・保健担当」や「図書担当」その他 「庶務担当」などといった役割をその中に取り込みながら、それと同時に「幹事会」として学校活動全般に関わってきました。幹事長である僕の不手際で、幹事会のメンバーが変わったり、また各メンバーの役割が不明になることがあったことを大変残念に思っています。  さて今年の幹事会の活動についてですが、今年の我々の活動が必ずしも当初求められていた通りのものか、と言われれば、それには疑問が残ります。その大きな理由は、「幹事会」としての確固とした形をもつことができず、役員会の一部分となってしまった所です。 しかしその分多くの行事の中で、幹事会のメンバーがその中心となることができたことは、ある意味で成功といえるかもしれません。  最後に、幹事会のメンバーを紹介します。 (幹事長)広沢、(副幹事長)秋山と高良、(庶務担当)部長富田と副部長辻、(食堂・保健担当)部長水光と副部長為近、(図書担当)部長吉井丈裕と副部長居内。この計9人 でした。僕があまり働かなかった分、他の8人のメンバーは本当によく働いてくれたと思 います。彼らはまさしく、今年の学友会活動の中心だったと思います。本当に御苦労様でした。
    (1994年度学友会漢字部 広沢 和也)


    私、アッセンブリー委員会委員長を務めさせてもらいました花房と申します。  ところで元野球部キャプテンの勝野君が私に何か質問があるようなのでお聞き下さい。 勝野『一年間おつかれさまでした。』  花房『いえいえどうも。』  K 『ところでどんな仕事しとったん?』  H 『えーと、あのー。』  K 『もしかして仕事してなかったんちゃう。』  H 『アホ!!仕事しとったわ。』  K 『でも司会進行のうち合わせをしてなかったやろ。いっつも直前まで大植まかせやったからなぁ。』  H 『アホいえ、飯森まかせや-ゆうねん。』  K 『さて、次期アッセンブリー委員長に一言。野球部打ち込み許して下さいませ。』  H 『いや。』
    (1994年度学友会アッセンブリー委員長 花房 政寿)


  • 学友会報告1993年度

    序にかえて-暗黙の了解を越えて-

    いま学友会は暗黙の了解に支配されている。明文規定たる学友会会則はその不備の故に自らの役割を否定し、会員のほとんどはその内容すらも知らない。この責任は各機関の関係を明記していない非体系的な会則と実際の運営だけを重んじ会則を軽んじた為政者にある。僕は決してこのような状況が望ましいとは思っていない。むしろ伝統や暗黙の了解といったものよりも明文化された会則の方が重要であると考えている。なぜなら明文化された会則はそれぞれの時代を貫く普遍的なよりどころであり、各時代の学友会の叡智の結晶であるからだ。それは伝統や慣習といった極めてあいまいなものではなく確固とした存在であり、都合による解釈の変更を許さない。  しかし現在まで多くの為政者は合理的で現実的な会則を作る作業よりも実在する会則を放置し実際面での運用に力を注ぐことを選択してきた。そしてその結果として残ったのが非合理的で非現実的な会則であった。もし仮に現在の会則を厳格に運用したとしたら、学友会は機能しなくなるだろう。そうでないとしても現在の組織機能よりも悪化することは間違いない。このことは一面的には非現実的な会則よりも現実を取った賢明な判断とも思えないことはないが、組織としてその規範となる会則を無視することはその存在自体に関わる大きな問題である。どのような会則であったとしてもそれが民主的な手続きで成立したものである以上、それは最高規範として守らなければならないのであり、会則に不備のある場合はそれを改めるのが妥当である。  なぜ僕がこのようなことをいうのか。それは極めて自己中心的な答えではあるが、僕がその間題に気付いたからであるとしか答えられない。人はそれぞれに異なった性質、オ能を持っているものである。もし「学友会改革」を共通の目的としたとき、それに必要な人材は次の二つに分けられる。新しい学友会制度を作る人とそれを実行する人である。言い替えれば前者は器を作る人であり、後者は新しく作られた器に注ぎ込む人である。前者には過去にとらわれない新しい発想が必要であり、後者には率先してそれを行う実行力と会員をリードしていくカリスマ性が必要である。僕自身は前者に適しているように思う。もちろん後者の特性を持っていないことへの非難を回避するつもりはない。しかし自分の持っている特性を最大限に発揮したいと考えている。それが自分の責任であり、義務であるからだ。最後にこの聖句が大きな意味を持ってくる。 「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れよ。」 I、学友会の基本 民主主義とは何か 「人民の人民による人民のための政府」  リンカーンはゲディスパーグの演説の中で政府のあり方についてこういっている。この言葉を用いて民主主義の本質を語るならば民主主義は「人民による」制度ということができると思う。民主主義はあくまでも制度であり、目的ではない。誰かが書いていたがデモクラシーは民主主義ではなく民主制と訳すべきであると僕も思う。民主主義は主義主張ではなく、制度なのだではその制度は一体どのようなものなのか。  一言でいうなればなんらかの形で構成員すなわち民主制における主権者が意思決定に関わる制度のことである。その具体的な方法は様々であるが、大きく二つに分けることができる。直接民主制と間接民主制である。一般的に前者の方が権限が強いように思われるが、それは制度上の問題であり感覚にとらわれる必要はない。しかしながらその制度の決定に関してはその構成員全員に意思表示の機会は均等に与えられるべきである。これが民主制の第一歩である。また極論ではあるがある個人若しくは機関に対して非常に大きな権限を委任することも民主制の一種であると考、えられると思う。ただしその場合、その個人等を罷免、解散する権限やその決定に対する異議申し立て、拒否権は常に主権者に与えられなければならないことは当然である。 自由とは何か  自由には責任が伴うという考え方があるが、その考えには反対である。自由とは自己の行為を絶対的に自分自身が決定することを意味する。そこには責任の概念はない。責任とは他者の自由との関係において存在する。自らの自由が他者の自由を侵さないようにする責任があるのだ。しかしこれは自由に責任が伴っているのではなく、その責任は他者の自由に包含されているものである。すなわち自己の自由には他者に対して自分の利益が侵されないようにするための権利を持っている。国家が万人の万人に対する契約であるとする社会契約論はこの思想の上に成り立っていると考えられる。自己の自由(権利)を守るために、一定の自己の自由を供出するのである。自由には責任が伴うという考えがある以上、真の自由は程遠い。それらは自由という言葉と引替えに責任を負わせようとする為政者の口実にすぎない。  また特に気になるのは「2つの自由」に関する問題である。表面的な自由と本質的な自由である。今日、至る所で主張されている自由はどうも前者の様な気がしてならない。高等部で主張される服装の自由などはその典型的なものである。しかし本当に大切なのは後者である。後者には目に見える自由だけでなく目に見えない自由も含まれる。服装の自由は確かに目に見える自由であるが、その延長線上には表現の自由という目に見えない自由が存在する。いくら服装が自由であったとしても、掲示物の許可制などという表現の自由を侵すものがあるような学校に自由を語る資格はない。 学友会の目的  学友会会則第3条は学友会の目的として次のように定めている。「__本会は関西学院大学学生会、中学部生徒会と密接な関係を保ち、学院建学の精神を体し、自治の精神に則り、学徒の学術、思想、情操、体位を向上し、__以って学風の振興を図ることを目的とする。」  ではこの条文を厳密に解釈していこう。まずこの条文は前半部と後半部に分けることができる。下線が前半部で、赤字が後半部である。この条文は目的を示している訳であるが、その中でも前者は手段が善かれ、後者はその結果が善かれている。つまり学友会の究極的な目的は「学風の振興」なのだ。これは大きな問題である。なぜなら学友会は自ら学校の御用機関としての地位を明言しているからである。学友会にとって最も重要であると思われる「学徒の学術、思想、情操、体位の向上」はあくまでも「学風の振興」のための手段に過ぎない。  このような会則によって本当の自治が完成するはずがない。自治とは民主的な方法によって自らを治めるものであるからだ。そしてその福利はつまるところ自己が享受するものである。別に学校と学友会か対立する必要はないが、組織としての領域ははっきりきせなければならない。このような馴れ合いが学友会活動の停滞をもたらしていることがそのことを如実に証明している。会則第3条を示されて現在の学友会活動は「自治ごっこ」であるといわれても反論することはできない。 権限一元論  すべての権限の由来が主権者たる会員にあることは前にも述べた。権限一元論はそこから展開される。学友会において会員が直接的に意見を表明する機会はそれほど多くはない。正副会長の選挙、役員のリコール請求、クラス委員の選挙、総合における採決くらいである。それらを分類すると積極的な意思表明と消極的な意思表明に区別することができる。積極的な意思表明とはある特定の事柄にたいして是非の意思表明をすることであり、総会の採決などがそれにあたる。またリコール請求も厳密にはこれに入ると解すべきである。消極的な意思表明とは主権者たる自らの権限を委任するため、代理を選定することである。選挙はこれの典型的なものである。ここでは後者に注目し、話を展開していく。  主権者たる会員が学友会執行のために権限を委任し、選定するのは正副会長である。(正確には副会長は会長職の補佐、有事の代理であり会長職と表記すべきである。)つまり学友会の執行権の源は会長に発する。この点において代表者の集合体であるクラス委員会などとは構成上、全く異なっている。そして会長は会則の定めるところにしたがい役員会を編成する。ここに学友会の最高執行機関が完成する。あらゆる行事も、クラブも、役員会から執行権を委任された一機関である。すべての執行機関の権限は役員会に帰し、その源は会長を通して会員に通じる。すなわちすべての機関は役員会に対して責任を負い、役員会・会長は会員に対して責任を持つ。 学友会を人体にあらわすと  学友会には様々な機関があるが、それは議決機関と執行機関に分けることができる。クラス委員会、美化委員会などは前者であり、役員会や各種執行委員会、各線部などは後者である。この章ではこれらの機関のあるべき姿をわかりやすくたとえを用いて説明しようと思う。  まず議決機関であるが、これは人体でいうと感覚器とそれを司る感覚中枢である。感覚中枢とは人体の五感を司っている脳の機関である。議決機関が行うことはどのような状況であるか目で見、耳で聞き、肌で感じて判断し、なんらかの行動せよという指令を脳の別の機関に出す。その機関が役員会である。役員会はその指令を具体的にどのようにして行うかを考えて、神経を通じ全身に具体的な行勅命令を出す。また言語理解のために言語中枢があるように、特に重要な事柄に関しては特別な執行委員会を置く。しかしこの場合も執行委員会は役員会の直属機関であって独立してはいない。それがすべての行事等において会長が頂点である所以である。 II、学友会改造計画 慣例の排除  慣例が学友会をむしばんでいることは前述のとおりである。ではそれを排除するためにはどのようにすればよいのか。慣例といわれるものをすべてピックアップし、有益なものは規約として明文化し、そうでないものは排除するのである。これには様々な困難がともなうが、時間的にはそれほど長くはかからないと思う。  優先順位からいうと会則の抜本的な改正、会計規約の制定、各機関の内規の制定である。特に会計規約の制定は急務である。なぜなら一部の総部において総部内の予算割当の決定が顧問の独断で行われているという事実があるからである。会則は予算割当の権限を役員会の専決事項として定めており、総部の部に対する予算割当権は役員会が総部に委任したものであって、総部顧問に委任したものではない。このようなことが起こる原因には学友会全体を通しての会計の一貫した規則がないことが挙げられる。これは顧問の問題というよりも、自分たちのことを顧問にすべて任せてしまおうという考え方自体が間違っている。この考え方は予算割当のことだけではない。日常の学友会活動や部活動においても必要以上に顧問に任せるといった風潮は自粛しなければならない。このような考えが学友会を名実ともに「自治ごっこ」の機関にしようとしているのである。 学友会の三権分立  学友会改革の第一歩は顧問も含めた権力範囲の明確化であると思う。ボーダレスな権限を持った顧問が個性のない学友会作りに大きな影響をおよぼしていることは明白である。そこで僕は三権分立を提唱したい。この三権とは議決権、執行権、監督権である。議決権はクラス委員会が持ち、執行権は役員会を中心とする執行機関、監督権は顧問、正副会長、正副クラス委員長で構成する連絡会議が持つ。それらは互いに相関関係にあり、均衡が保たれるようになる。そしてこれらを超越した機関として総会を置く。総会の招集権はそれぞれの機関が持っており、総会の決定は絶対である。これによって各機関の悪意による学友会運営の停止を防ぐことができる。  まず議決機関であるクラス委員会は執行機関に対し執行命令を決議し、執行機関からの提案を審議する。執行機関は執行命令を執行するとともに、全会一致でクラス委員会を解散することができる。また連絡会議は執行機関の執行及び議決機関の議決を監督し、必要に応じてその無効を決定することができる。 なお、HRの運営決定は便宜上、連絡会議が行う。 執行機関改革  今年の組織は体系的になっているが、それでも多くの問題があった。最大の問題は規模が大きすぎることである。そのため柔軟性に欠ける。突発的な問題が起こった場合、対処が取りにくく、責任の所在もはっきりしない。そこで提唱するのが会長直属機関としての庶務局の設置である。今年も庶務局は存在するが、規模が大きく、また役員会直属であるため柔軟性に欠ける。僕の提唱する庶務局はオールマイティーな機関である。庶務局長は会長が兼任し、局員は各学年2名の計6名くらいが適当である。また下の学年から副局長を会長が指名する。副局長は会長の秘書的な役割を行い、常にともに行動する。これによって縦のつながりも自然に生まれていく。庶務局は何でもやる。普段は印刷や文書作成、企画立案、広報宣伝などを行い、問題が生じれば食堂や図書館との交渉にあたったりもする。いわば学友会の何でも屋である。 議決機関改革 「美化委員会と礼拝委員会を学友会から切り離す」 議決機関改革の目玉はこれである。なぜか。理由は簡単である。この二つの委見合は学友会の趣旨にそぐわないからだ。学友会の目的はつまるところ会員の福利であると思う。それならばこの目的に美化、礼拝がどのような役割を果たすのだろうか。確かに学校が美しくなることは会員の福利ではあるし、宗教に救われる会員がいるかも知れない。しかしそれらは学友会の領域ではない。学校の領域である。この点は中学部でははっきりとしていた。中学部にも宗教委員、風紀美化委員というのがあったがそれを任命するのはあくまでも生徒会ではなく学校だった。  この領域論にけじめをつけなければ大きな問題が生じる。美化委員会を例にとろう。美化委員会は会則で「美化に関して総会に次ぐ権限」を有するとされている。ではその美化委員会がもし仮に「掃除は行わなくてよい」という決議をしたとする。それで本当に掃除をしなくてよいのだろうか。決してそうではない。掃除をしなくて汚れるのは学校の所有物たる校舎であり、学友会の権限が及ぶ範囲ではない。礼拝委員会でも学校の宗教教育に関わることであり、学友会の領域ではない。これらの委員会は学校の美化、宗教活動の道具とされていただけである。  第二の改革はクラス委員会改革である。クラス委員会に学年ごとの分会を設置し、その権限の一部を委任する。そしてその分会に代表者を置き、それらの代表者と、正副委員長でクラス委員会の運営を協議するのである。この改革にはどのような意味があるのか。それは発言力の小さい下級生の意見を十分に聞き、各学年の独自性を出すということにある。 総会改革  総会開催を容易にする。総会改革はこの一語につきる。現在はクラス委員会の議決のみに招集権があるが、それではクラス委員会の上級機関としての総会の機能がなくなってしまう。なぜなら上級機関には下級機関からの諮問を判断することと下級機関を審査する機能の両方が兼ね備わっていなければならないからだ。後者の機能を十分に発揮させるためには総会の招集を分散させる以外にはない。僕は前述の連絡会議、役員会、クラス委員会にそれぞれ総会の招集権を持たせるとともに学友会の最高議決機関という役割だけではなく、学友会の最高機関としての役割を持たせるべきであると思う。また主権者たる会員がそれらの機関を監査することは当然であるので、会員の署名による招集も必要である。 III、むすび ―明日を担う人へ― 恐ることなかれ  「身を殺して魂を殺すに能わざるものを恐ることなかれ」  日本を代表するロマン主義文学の小説家徳富蘆花はこの言葉を用いてこう演説した。少し長くなるが引用しようと思う。 「肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。人が教えられたる信条のままに執着し、言わせらるるごとくいい、させらるるごとくふるまい、型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安をぬすんで、一切の自立自信、自化自発を失うは、これすなわち霊魂の死である。」  明日を担う人はまさにこうこの信念を持たなければならないと思う。  何かをしようとする時、教師を恐れる。失敗を恐れる。これらはすべて取るにたらないことだと思う。まわりがどのような反応をしても、自分が正しいと思うことは妥協するべきではない。学友会は民主的な組織なのであるから、学友会のしかるべき機関の判断に託すべきである。教師と生徒は全く別の世界の人間であるからだ。つまり教師は学校の領域の住人であり、我々は学友会の領域の住人である。だから学校の領域を侵さないかぎり、学友会は独自に判断できるし、またするペきであると思う。  また失敗はあくまでも結果である。我々が行うのはその過程である。もし過程の中で悔いがあるのなら、それは反省すべきであるが、最善をつくして失敗したのなら悔いる必要などない。ましてや実現に取りかかる前の段階で失敗を恐れ、それを行わないことは論外である。何かをして失敗することよりも、すべきことをしないことの方が重大な罪である。 始まりはいつも困難  「国民はよいものであっても、新しいものは拒否する。」  これはあのロシアのピョートル大帝がいつも語っていた言葉である。この言葉の通り、新しいことにはいつも困難が伴う。特に現状にある程度、恵まれている場合、極めて保守的な風潮が生まれる。リスクを負って新しいことをするよりも今のままの方がよい。これが大衆化への第一歩である。無関心もその塘はここにある。恵まれている状態にあっては目先の利益にとらわれ遠くを見通すことができなくなるのだ。彼らが本気になるのはただ一つ、既得権が奪われそうなときだけである。しかしそれが彼らの許容範囲内で且つ自分よりも強い力で強制されれば、その現状に甘んじてしまう。無駄な抵抗をするよりも現状に適応するのが得策であると判断するのだ。つまり彼らはその是非は別にしても極めて合理的な思考を持っているのである。  そのような状況で明日を担う人の責任は、広い視野で遠くを見通し、何が彼らにとって最善であるかを判断することである。この判断は時として彼らに受け入れられないことがあるかも知れない。そんな時にこそ冒頭の言葉を思いだしてほしい。受け入れられるものと本当に良いものとは全く別の次元の話である。 伝統は愚者の口実  伝統である。前例がない。こんなことは自分で考えることのできない愚かものの口実にすぎない。確かに本当に良いものは長く続くしかしそれは決して長く続いたから良いものであるという結論には帰結しない。本当に良いものはそれなりの価値があるのだ。それを無視して「伝統である」ということだけを重んじることは愚である。だから僕はあえて言う。「伝統を疑い、伝統にとらわれるな」なぜなら伝統となったものはその当時には極めて「新しいもの」であったはずだからだ。  何かをしようとするときは、まず伝統や固定観念と言ったものを排除し、目的をはっきりと見据えて、何が良いものかを見極めなくてはならない。僕はすべての高等部生にはその能力があると思う。ただ伝統という重い扉で自分の能力をとざしてしまっているのだ。もっと自分に自信を持ってほしい。明日を担う人へ僕は切に願う。 終わりに  如何であっただろうか。特に、十三・十四・十五号を持つ三年生にとっては、〝え!?″というような企画だったと思う。しかし、これ程問題のある学校が、関西学院なのである。  まだまだ掘れば出てきそうだが、少なくとも全校生にアンケートをとってまとめてハイ終わり!の企画ではなかったことだけは認識してほしい。繰り返して言いたい。目をつぶってはな らない。過去に目を閉ざしてはいけないのである。
    (1993年度学友会会長 能島 裕介)


  • 学友会報告1991年度

    今年の学友会は、〝カウント制廃止〟及び〝パンショップからの品物持ち込み許可〟という報告から、その実質的な活動が始まった役員決定の時点で、今年は、役日月会とHRを一体化し、高等部の団結を計るという方針を固めていたが、これらの壁がなくなり、各行事、委員会活動の見直しを含め、役員会活動の視野はかなり広くなったと言える。  これらの目標を達する為に、何をやってきたかを挙げることは控えさせてもらう。一日一日が試行錯誤であり、それ故中途半端で消えてしまった策などがあったことをこの場で深くおわびすると共に、我々の築いた基礎を基に、全校生徒が関西学院高等部が見えるようにこれからの学友会役員がしっかりと頑張ってくれるよう、健闘を期待する。そして、今年の行事がすべて成功の内に終えることが出来たことを、すべての生徒に、そして役員に感謝したい。行事がうまくいくということが、日頃みんなが意見を出し合い、協力し合って準備した成果であるのは言うまでもないそれだけでも高等部の団結という公約は果たされたと言える。中でも総会は最高のものだったと思う。意見の一つ一つについての批判はかなりあるだろう。しかし彼等が一生懸命に900人の前で意見をし、あの迫力となったパワーは何事にも変えがたい宝だと思う。教師会のいいかげんな回答書については不満がかなりあることが先のアンケートでもわかるが、この事について役員としてもだまってはいない。この原稿を書いている時点ではまだわからないが、けじめをつけて任期を終えたいと思う。  僕の思いつきだらけのやり方につき合ってくれた役員のみなさんに、この場で「おつかれさん!ありがとう。」と言いたい。特にパートナーの谷山君。僕が言う前に行動するタイプだった為に、活動報告でも謙遜してるけど、君が思っている以上に僕は君に助けられていた事を知っておいて下さい。この学校で君は最高のパートナーでした。  この一年間、独裁的に映った人や「あの頭どうにかせい。」と思った人も多かったでしょう。しかし、こうして出たがりで夢想家の僕を温かく見守り、協力してくれたみんなの一人一人に感謝して終りたいと思います。
    (1991年度学友会会長 岡村 眞介)


    今年一年間学友会副会長をやっていて、自分でもつくづく仕事をしなかった副会長だと思った。業績報告といえば、春休みの新入生オリエンテーションキャンプ、一学期の学友会総会とKGスポーツ大会、二学期の関関戦と文化祭ソフトボールと一度しか行かなかった私学交流会(行っても何の役にもたっていない)と次期学友会選挙ぐらいである。どの行事も自分では中途半端であったと思う。こんな副会長のおかげで、会長の岡村君その他の学友会役員にもたくさんの迷惑をかけたと思う。この場をかりて、おわびしたいと思います。毎年副会長は遊んでばかりいて仕事をしないというのがみんなから見た印象ではないかと思う(昨年度副会長のTさんは特にそうだと思う)。これでは会長の補佐としての意味が全くないので、次期副会長には、この仕事をしない副会長というみんなからの印象をくつがえす様に、生徒会活動にはげんでほしいと願っている。  今年一年間、どうもありがとうございました。それと他の学友会役員のみなさん、一年間おつかれさまでした。  (三-DのIくん、三-EのWくん、それと最近幸せな三-BのKくん、あまり女にうつつをぬかさない様に、それと三-CのHくんあまり彼女をいじめない様に)
    (1991年度学友会副会長 谷山 貴彦)


    会計の大きな仕事といえば、予算と決算であり、予算配分が済めば各総部に責任が移るので、僕が直接管理するのはそれ程多くないのであまり忙しくはなかった。今年から学友会費が値上がりしたので、なるべく各方面に満足できるように予算を組んだが、至らなかった点は了承願いたい。昨年度からの引き継ぎが遅かったため、予算編成の期間が短く、また、全然過去の資料がないため苦労したので (それに僕自身も忙しかったため)、今年は特別なことはせず合計の仕事をなるべく会則の規定にもどし、一会計年度を一二月で締める、各総部の決算を本部会計の方へ戻す、資料をきっちりと保管し引き継ぐ、ということを目標にして努力した。これを書いている時点ではまだ決算が終わっていないため、目標は達せずに終わったが、来年度の人に期待したい。  さて仕事の内容であるが、僕がフットボール部であるから忙しいため、お金の管理(入金・払出しなど)はほとんど芝川先生にまかせっきりだった。先生の力なしにはこの一年間は無事に乗り切れなかったと思うので大変感謝している。また子供会・文化祭などの主な行事費も、各会計の人にまかせっきりであったので、よく頑張ってくれたと思う。感謝したい。  最後に、僕のわがままを不満なく聞いてついてきてくれた橋本君 蓮総合計)、前滝君(文総合計)、それに芝川先生に心から感謝の意を述べたい。どうもありがとうございました。来年度の会計の人に期待します。
    (1991年度学友会会計 小西 潤一)


     今年度が始まってから、急に作られたポジションのためなじみが薄いことだろう。内容は読んで字のごとく、学校外の仕事、他校との交流、その他である。就任直後に舞込んだ仕事は松蔭の新聞部の取材であったが、こんなオインイ仕事は二度と来なかった。あとは主に私学交流会用の書類の作製、他校や企業などからくるアンケートなどの処理であった。私学交流会は十二月に我が校で主催した。交流会では、いかに関学の学友会は恵まれた環境にあるかを、他校との比較で感じた。勉強になったこともあるし、少しは他校の参考になれたかなあと思う。  外務を担当する人は、学校の顔になるわけだから後継の人たちは、ある程度の自覚を持ってやって欲しい。
    (1991年度学友会外務 見市 建)


  • 学友会報告1990年度

  • 学友会報告1989年度

    この一年  今年の学友会は、新校舎への移転、百周年の行事と、全く新しいことばかりだった。まず最初、私が会長になってしたことは、卒業式での送辞であった。その後、会議によって一年間の日程をおおまかに決め、何をするべきかを、頭にたたきこんだ。  毎週木曜日の昼休みに、学友会本部会議を行い、その週にすべき事、また、しなければならないことを報告しあった。       春休みには、新一年生のオリエンテーションキャンプに同行し、一年生の指導にあたった。又、春の会(子供会)においては、子供達と共に一日楽しくすごした。六月には、学友会総会を行なった。最初に私が会長になる時の公約であったポイント制問題は、クラス委員会において問題にとりあげられず、総会の問題としてあげられなかった。なんとも情けないはなしだ。七月の期末テストの後、KGオリンピックを例年通り行い、その最終日に、旧校舎とのお別れセレモニーを行った。これが本当に旧校舎との最後の別れだった。その二、三日後には、一年生の臨海学校に同行し、リーダーとして働いた。夏休みは、この臨海学校の他は、旧校舎の最後の会(OB)の手伝いをした。九月には、関々戦があり、その何ケ月も前から打ち合わせにいそがしかった。結果は、おしくも敗北。その後は、文化祭を残すのみとなった。文化祭までの一週間は、ぼくにとってとても長いものだった。毎日の会議(TOP役員会)で決めたり、報告しあったり、その結果、新校舎で最初の文化祭も成功させることができたと思う。後は、次期会長の選出。そして、卒業式での答辞を残すのみだ。  今年は、平成元年、新校舎竣工、創立百周年と、特別な行事がたくさんありすぎた。又、新校舎に移転して、わからないことばかりだったので、本当にまようことが多かった。よく、ここまでこれたと思う。そして、文化祭が終わり、会長としての仕事を終えることができ、心よりうれしく思う。本当にありがとう。
    (1989年度学友会会長 廣部 雅資)


    この一年間、会計の仕事をしてくることができたのも、みなさんのおかげだと思います。 次にこの一年の仕事の報告をしたいと思います。会計に決まったあとに、石森先生と相談の上、平成元年度の予算を立てました。例年とたいして変わらないものとなりましたが、一年生へのクラブ紹介の小冊子の費用を特別に割りあてました。運動総部・文化総部への部費の割りあてなどは、文総・運総の会計の方の働きによるもので、大変感謝しています。この点は、会計の私よりも、各会計の人ががんばったと思います。文化祭の費用なども、文化祭会計の方にまかせきりだったので、大変感謝しています。  今年は、各方面の人々に満足してもらえるような予算のたてかたをしたつもりでしたが、いたらなかったところは、おわびしたいと思います。それと一年間、しっかりしていない私を助けて下さった会長・副会長・各役員の方・生徒のみなさん、ありがとうございました。来年の方もしっかりとがんばって下さい。わからないことがあったら何でも教えます。
    (1989年度学友会会計 玉田 明人)


    今年の総務部は、学友会役員の言われるままに動いた。といってもほとんど仕事はなく楽な一年だった。大きなな事といえば、総会の時の会場の準備とKGオリンピック後のさよならセレモニーの企画ぐらいである。総務部というのは、学友会役員を援助する為のものであると聞かされていたが、今年がそのように学友会を助けられたかというと少し疑問であるが、どちらにしろ総務部のおかげで○○が失敗したとか言われなくてよかったと思う。これもたよりない僕を支えてくれた、次長の市田潤君、森正樹君、西候誠一君、そして第一局の吉岡淳一君、幣国守君、第二局の謝花書文君、小林慎吾君のおかげだと思っています。本当にみなさんありがとうございました。  最後に来年の総務部に言いたいことがあります。それは今年以上の活躍をしてほしいということです。今年はたよりない僕の為にあまり活躍することができなかったけど、来年は学友会役員に逆に命令ができるぐらいの、すばらしい総務部をつくりあげてほしいと心から願っています。
    (1989年度学友会総務部 小川 高嗣)


     今年の総務第一局は、学友会の手伝いだけで終わったような一年であった。  最初の仕事は、総合の集計の係であった。これは、ただ単に賛成の人数を数えるだけのものであった。  その次の仕事は、OBの高等部旧校舎の送別礼拝の案内係をやった。  その他は、行事の後のかたずけぐらいをした。  もっと積極的に何でもとりくむべきであった。そうすれば、もっと学友会が楽しいものになっていたような気がする。そういう面では、学友会の人達にめいわくをかけたことをあやまりたい。また、総務部長の小川君をはじめ、いつも僕を助けてくれた幣君など総務部の人たちに心から感謝したい。  来年この局についた人は、こんなことのないようにもっと学友会を盛り上げる人物になってほしい。
    (1989年度学友会総務部第一局 吉岡 淳一)


    これを書いてくれと言われた時、自分は食堂局を引き継いでから一体何をしただろうという疑問を感じた。引き継いだ時、「仕事はあまりない」と言われたが、その通りになってしまった。というよりか、おまけの仕事が増えてしまった。総部務としては学友会を手伝ったりしただけだ。それと、食堂の台ふきを要求しただけだ。しかし、今でも食堂にあるテーブルの上には台ふきは置かれていない。  おまけの仕事というのは、一つはたまに出席した学友会の会議(総務部はこの会議には関係ない。しかし、たまたましゃしゃりでてしまったことを後悔している)で、顧問の先生に、クラブハウス管理委員会に指命されてしまった。この仕事は、比較的楽なはずであったのに今年は校舎が変わったので、クラブハウスの引っ越しなどでかなりしんどかった。  もう一つは、文化祭TOP役員に選ばれてしまった。総務第二局(食堂局)をしていたおかげで、しつかりと文化祭TOP役貞の食品、衛生パートに就いてしまった。この仕事はかなりしんどかった。特に、放送が使えなかったのでかなり苦労した。  来年、総務第二局(食堂局)に選ばれたらあまりしゃしゃり出ないことが望ましい。
    (1989年度学友会総務部第二局 謝花 書文)


  • 学友会報告1986年度

    六月の中旬から、本年度の学友会会長という大役に就かせてもらったわけだが、会長としての約六カ月間は、非常に短くあっという間に過ぎていった。しかし、この六カ月間で僕自身いろいろなことを学び、考えさせられ、また、いろいろな人と出会い、自分の人格形成において非常に大きな影響を受けた。また、“高等部生活の中で、最も思い出の多い”非常に有意義な六カ月間だったと思う。  就任当時は、学友会の運営方法が理解できなかった部分も多く、また、自分自身がどの位置にいて、どういう風に動いたらいいのかがわからずに、直井君をはじめとする役員のみんなには非常に迷惑をかけたと思う。しかしみんなの助けがあったからこそ、この大役をやりとげることができたと思う。そして、ようやく運営方法も理解でき、自分の動き方もわかった噴には、そろそろ任期も終わりに近づいていたというのは、非常に残念だったと思うとともに、反省しています。  この六カ月間の、会長としての自分を振り返ってみると、かなり甘い会長だったと思う。行事執行に追われ、他の人々に言われたことを中心にやってきて、僕個人のカラーがあまり出なかったと思う。それは非常に残念なことではあるが、今年の場合はそれで良かったと思っている。今年は、周りに素晴らしい人々がいたので、その人達の意見を生かすように動いてきたつもりである。そしてその人達の意見によって、今年の学友会は行事執行だけでなく、自治活動という本来の仕事をより多く行なうことができたのではないかと思っている。  そして僕自身の会長としての目標は、「決してあきらめないこと」だった。段上からみんなを見て悲しく思い、自分の無力さを痛く感じたこともあった。しかし、僕はいつでも希望を捨ててなかった。高等部生は、必ずわかってくれると信じていたし、他校の高校生にはないものをもっているという信念を持ってやってきたつもりである。そして、二度ほど自由に関しての、みんなの意見を聞かせてもらったわけだが、その中で思ったのは、一人一人ではいろいろと素晴らしいことを考えているのに、全体になると、なかなかその考えが出てこないということである。それは、高等部生の特徴だと思うが、そういう状態にしてしまった役員の怠慢もあると思い、痛く反省している。来年からの学友会役員の人たちは、もっとみんなの意見が出やすいような状態にしていくことが、大切だと思う。そして、自由に関してのみんなのいろいろな意見を聞いて、やっぱり高等部生は素晴らしく、あきらめないでよかったと思っている。  最後に、みんなに言っておきたいのは、関学は本当に素晴らしい学校だということ、僕たちは自由であるということ、学友会は役員だけではなく、生徒全員のものであり、生徒全員で作っていかなければいけないということ、そして、生徒全員で学友会を作っていく上で、生徒全員をまとめるのが学友会役員の仕事だということです。これから役員をやっていく人達は、必ず壁にぶつかると思います。しかし、そんな時にこそ生徒のみんなを信じ希望を持って活動していってほしいと思います。そして、一年間必死になってやってきても、残る業績はほんのわずかかもしれません。しかし、そのとき味わう苦労は、必ずいつか報われるでしょう。  生徒のみんなは、もっと学友会を作っていくことに参加してほしいと思います。みんなの参加が、役員の苦労を取り除き、素晴らしい高等部を作っていくと思います。高等部は、みんなの意見を必ず受け入れてくれる学校だし、一人一人の考えには素晴らしいものがあるので、それをもっと表に出していってほしいと思います。そして、会長をはじめとする役員の言っていることや、同じ仲間である生徒の聞から出た意見には、必ず耳を傾け、真剣に考えてほしいと思います。役貞の人たちは、みんなの学校生括を少しでも良くしようと苦労し、悩んでいるのだから。そして、関学は阪神間で唯一自治の認められている学校だということも忘れないで欲しいのです。そして、高等部を、阪神間の、そして日本中の高等学校の中で、自治のある学校の手本となるように作り上げていってほしいと思います。高等部の生徒のみんななら、必ずできると思います。これからも、高等部生であるという自覚と誇りを持って、学友会活動を盛り上げていってほしいと思います。  この六カ月間、弱い僕を支えてくれた役員のみんな、僕に力を与えてくれた生徒の皆さん、お世話になった労務の方々、そして、いろいろご迷惑をおかけした先生方、本当にありがとうございました。この六ケ月間、僕はいろいろな人に出会うことができ、いろいろな人に励まされ、本当に幸せだったと思います。そして、僕たちを支えてくれた以上に、来年の学友会を見守ってあげてください。六ケ月間僕を支えてくださった皆さん、一年間学友会を支えてくださった皆さん、本当にいい経験をすることができました。本当にありがとうございました。
    (1989年度学友会会長 上林 拓生)


    この一年間、会計の仕事を務めてきたわけですが、無事に終了出来たのも、他の役員の方々のおかげだと思います。その中でも、文化祭・文化総部予算編成を手伝ってくれた文総合計の小野君にひとまずこの文面上で御礼を言わせてもらいたいと思います。  次に、この一年の大まかな報告をしたいと思います。  まず、一月の初めに学友会の引き継ぎが終わった後、前年度会計の方と共に、学院会計において、帳簿合わせを行ないました。なるべく、この時期までに会計上の事務処理の方法について敢えてもらえばいいと思います。  春休みになると文総の各部のマネージャー、文総合計、学友会会計、文総顧問芝川先生の立ち合いのもと、今年度の文総予算編成を行ないました。これらの予算編成に関しては、例年にとらわれることなく、あくまでもその年の会計の意志・志向で行なってほしいと思います。  次に、合計にとっても一番重要を事柄が文化祭です。文化祭TOP役員が決まり、そのTOP役貞の動きに合わせてスムーズに各パートの費用の出し入れが出来るように心掛けてほしいと思います。例年この時期には多練の金品や品物が出回るので、管理を厳重に行うように気を付けて下さい。前年度に盗難事件があったせいか、今年度の場合はその点では十分にうまく出来たと思います。文化祭が終わっても、会計は決算報告が残っておりますので大変ですが最後までやり通して下さい。
    (1989年度学友会会計局)


    今年の場合の書記のする主な仕事は、役員会記録、学友会誌発行、資料整理、文書作成及び諸々の会長の秘書的な役割だった。特に資料整理について書いておきたい。まず資料整理の必要性について。学友会役員は一年の任期である。これに対し教師は長ければ三十年である。学友会が行事を行なう時、その行事についての参考資料がなければ幾らか情報を教師に求めぎるを得ない。教師に依存せねば実行できないと言う様では我々の自治能力自体が疑わしくなる。さらに、歴史の畜積がされないという事は反省を欠き、単なる行事執行という事につながる。又、現在行なっている事が将来中断される事も有り得る。その中断の後復興しようとした場合、資料が無い事、特にその中断の原因についての資料が無い事は、将来再び中断する恐れを生む。だいいち、どんな事を過去行なっていたのかを知らないなら、過去の役員の知恵も無駄になる。最後に歴史の畜積のない所に自覚も誇りも育ち得ない。  次に資料整理の方法について。これは、各年度意欲のある役員が、自分の方法(もちろん前任の方法を生かしつつ)を考えて整理しなおすぐらいの方がいい。目録があるにしても、一度は現物全て(余力があれば会計資料も含む)に、目を通し、どういう情報がどこに有るかが、だいたいわかるぐらいにはしておかないと、資料は宝の持ちぐされになる。今年度は資料の散逸が甚だしく、集めてまとめるので終わってしまった。資料室に入れるが、入った資料は、書記がちゃんと管理する事。いずれは学友会史を編纂する必要があるので資料は大切に。
    (1989年度学友会書記 杉山耕一)


  • 学友会報告1982年度

    素直になれば  人間誰しも欠点を備えている。我々が素直にをれないのはその為だろう。人はその欠点を知られ、他からの攻撃を受けない為に気に入られる自分を造り出す。そこで、やさしさを誇張する自分が誕生するのである。しかし、それがいつまでも続く訳ではをく、いつかは石膏のように少しずつ崩れていく、相手は、その時騙されていた事に気付き「なんて奴だ俺を騙すをんて」そう思うのだが、その本人もまた本性が現われお互い言い争いにな。こんをことがあるからギクシャクした世界が生まれてくる。  始めからお互い不完全を存在であると認めていられるなら、何の気兼ねもをく素直に自分を表現できるだろう。完全を目指してしまえば、それは当然結果だけが問われる。しかし不完全であることを前提とした条件下ではむしろその努力が注目される。完全を望むから相手の欠点が目につく。素直にをれば良い点がよく見えてくる。素直でをければ心の底からのやさしさや意欲は湧いてこをいだろう。  高等部がもっと素直にをって、心にゆとりを持てば、もっと良い発展が遂げられる。一人一人だって素直にをれば、もっとやさしくをれる。高等部は完全じゃをい。だから僕達が心と力を注ぐのだ!!  一年間、共に精一杯過して釆た皆、本当にありがとう。
    (1982年度学友会会長 霜川 卓之)


    高等部の高等部たる特色は、その推薦制の中で、高等部生が自由な時間を持ち、様々を行事が自らの手によって行をわれることにある。一般的を高校生がこれだけのことを学校に認可させることができるかと言えば、そう簡単にいかをいだろう。これは一重に、我が高等部の諸先輩方の恩恵によるものだろう。一年一年、その特徴が伝統の流れの中で、新しい一貫を作り出してきた。今年も、高等部生の力で、今までにをい素晴らしいものをと、行われた。 (担当:若生) 四月五日 入学式  「快晴に恵まれ、厳粛に行われた入学式、どのクラブも部員集めで忙しい一日だった。」 (担当:橘)  この日を期に高等部生としての生活が始まる。この日、胸を希望に膨らませた一年生は、先輩方のクラブ歓誘の甘い言葉に誘われて入部を決心したが、どのような三年間を送る事になるのか誰も知るよしもをかった。 四月六日~八日 オリエンテーション・キャンプ  「何もわからないい内のキャンプは長く感じた。にもかかわらず楽しかった。」 (担当:川口)  これは高等部生の物で、関学生としての教育方針や目的を外部の中写生たちに理解してもらうためなどの主旨で、例年始業式の前に行をわれていた。 四月二十九日 子供会  「今年の子供会は一応の成功を収めた。心残りは、この子供会がいつまで続くかという事である。子供会を頼む、後輩諸君!!」 (担当:前田)  子供会は、高等部生が施設の子供たちを訪問したり、高等部に招いたりして一緒に遊ぶのである。これこそ、一部の高等部生だけが参加するといった感じがあるが、高等部生をらではの行事である。今年の参加者も、悲感的な事を言っているが、これだけでも永く残らをければならないように思う。他の行事は娯楽的を意味合いが強いのに対して、これこそマスタリー・フォー・サービスをのだから。 五月十七日 宗教運動  「僕、宗教運動では何もしてません。あれは直接礼拝委員会とは関係をいですから。」(担当:喜田)  編集局が礼拝委員長にコメントを取れば右のようを答えが返ってきた。礼拝に関係する人がこのようを態度を取ってはいるが、一般生には物珍しさも手伝って、皆静かに聞いていた。 五月二十日 球技大会  「男子校の体育行事と期待していたのに、全体的にまとまりがなくて裏切られた気がした。」 (担当:池田)  各競技に分れて争っていたが、人の受けは様々であった様だ。 五月三十一日~六月十二日 教育実習  「あまり印象深くをかった。ただ暗く悲惨を聖書担当の山上さんの顔だけが浮んでくる。」 (担当:八乙女) 六月八日 文楽鑑賞  「昨年は三年生だけで、今年は全校生。良い事だと思うが、高等部生にとって少しばかり難しいとは思うのだが……。」 (担当:瀬川)  「文楽という物はおじいさんやおばあさんのためのものだと思っていた。その通りだと思う。」 (担当:梅原)  本当にそうであるが、一度見ておいてもよかろう。まあ、それ位の物にしか扱われていなかった。 六月十九日 学友会総会  「クラス委員会提出の内容は総会の必要性を喪失しており、今回盛り上がりに欠けていた。」 (担当:山本)  今日は、それでも60点制の事で様々を論議を生み、意義のある物であったように思う。高等部生の活発さが問題にされる点は確かにあった。 六月二十六日 合唱コンクール  「練習しをいクラスが優勝し、げに不思議かを我がクラス。」 (担当:西野)  今年は質的にも良かった。また聴衆も静かに聞いていた。 七月十二日 水泳大会  「昨年の資料がなく苦労したが、役員のみんなが頑張ってくれて成功に終り良かった。」 (担当:近藤)  「今年の水泳大会は悪天候であったが、例年にをくとても盛り上がり、クラス優勝を狙ってみんをよくがんばった。」 (担当:粟島)  「今年こそは……。」と皆この行事のなくなる事を願っているが、一旦やり始めると仲々の盛り上がりでした。 七月十四日 一年生臨海学校  「遠泳しんどかった。」 七月十七日~九月七日 夏休み  「NO Coment!」(担当:少年A)  人に言えない様を事をしをいように。健康的を高校生らしい過ごし方をするように。分かりましたかA君。本当にこの高等部ならではの長い休みを有効に使わをくてはをりませんなあ。 九月二十三日 関々戦  「生憎の雨天の中ではあったが、両校共によく健闘した。」 (担当:大西)  「二十五キロハイク等、第五回記念大会として、仲々の盛り上がりを見せたと思う。」(担当:田村)  今年は、二十五キロハイクが行われた。まだ五回にすぎないが、実に素晴らしい企画を次々に出してきて、立派を行事ではなかろうか。 九月二十八日  創立記念日  今年も原田の森で礼拝が行われた。 十月十日 体育祭  「初めての関学の体育大会で、余りわからをかったが、みなさん燃えていた。」 (担当:山村)  「今年の体育大会は準備期間も短く、だらだらとして盛り上がらなかった。」 (担当:藤江)  学年や人によって受け取り方も違うのかもしれない。だが、下らないと言っている人も心の底に優勝してやろうという強い気持ちがあったようだ。全般的に勝てそうなクラスが燃えており、勝ち目のないクラスの暑がシラケ切っていたと思わないでもない。 十月二十三日~十月二十九日 宗教運動  「人を『愛する』とは、与えるというより、分かち合うのではないかと思った。」 (担当:富田)  礼拝に批判的な意見を持つ事のできる程一生懸命聞いている人もいるのです。並の高校生なら『愛する』なんて言葉は使えない。 十一月一日~十一月七日  文化祭  展示  「娯楽的傾向の強い物であったため、文化からは程遠い物であった。」  そういう意見も尤もだ。だが一方では、これだけの動員数を持つ高校は近畿一円何処を捜しても無いだろう。だから「文化祭」の文化という文字を無くしてはどうか。  講演  「生徒の要望・予算・日程等の調整でやや難行したが、九月中には決定にこぎつけた。」 (担当:安藤)  今年は笑福亭鶴瓶さんがおいでになり、生徒間の評判は上々であった。  映画  「やはり映画館で見たかった。『時計じかけのオレンジ』が中止になったのが惜しい。」 (担当:村井)  「映画について色々言われているが、生徒本位の映画選択が出来るようにしてもらいたい。」 (担当:安田)  内容はともかく、見たかったというのが圧倒的だ。講堂の椅子をリクライニングにするという意見も多いようだ。  校外ステージ  「こうゆう言い方はきついが、今年の校外ステージはそつなくまとまっていた。目玉商品がなく盛り上がりに欠けたのが残念だが、サービス・リーダーズやバンドのガンバリでもったようを気がする。」 (担当:和田)  そつなく出来るというのと、盛り上がるというのは高等部生には相反する事なのかもしれない。 十一月二十八日 学友会選挙  「面倒だ/誰でもいいから入れてやる/我らが選挙ああ無責任。」 (担当:西野)  大変立派な御意見有がとう御座いました。 (担当生)

    (1982年度年間小史)